① 非線形ランダム力学系の現象論
近年、化学反応動力学においても孤立分子系における化学反応とその溶媒中での反応との違いに注目が集まっている。孤立分子系における化学反応はSchrödinger方程式、または、Newton方程式により記述できるのだが、溶媒中での反応においてはそれに加えて分子の周囲の溶媒からうける揺動の効果を考慮する必要がある。そのような外部から刑に加わる揺動の効果をランダムな雑音として理想化したものがランダム力学系であり、すでに溶媒中におけるタンパク質の折り畳みのシミュレーション等に幅広く用いられている。そのようなシミュレーションにより多くの現象が再現されているが、一方で、その動力学の現象論的な理解はあまり進んでいるとは言えない。例えば、系の温度等のパラメータを変化させたときに系の動力学が質的に変化するようにみえる、自励力学系における分岐現象のようなものがみられる場合があるが、ランダム力学系における分岐とは何か?ということに対する最終的な答えは得られていない。 また、ランダム力学系を含む非自励力学系を理解するため、自励力学系の概念が非自励力学系に拡張されてきているが、
・自励力学系と違い非自励力学系は対象が広すぎるのでその中でどのような力学系に的を絞るのがよいのか(その中でも歪積力学系等の比較的扱いやすいクラスもあるが)わからない。
・自励力学系の概念の拡張の仕方も一通りではなく、どのような拡張を考えればよいのか数学的な観点だけからは明らかではない場合もある。 これらの問題には数学だけで答えを出すのは難しいが、自然現象を通して現れるランダム力学系を解析することにより、
・どのようなクラスの非自励力学系(ランダム力学系)を考察の対象とすればよいのか?
・自励力学系における種々の概念の内、どの概念がランダム力学系の理解においても有用であるのか?
・自励力学系における概念のランダム力学系への自然な拡張が一通りではない場合にどの拡張が有意義であるのか?
という問題を解きながら、非線形ランダム力学系の現象論を構築していく必要がある。本ワークショップでは、佐藤らに非線形ランダム力学系の現象論の構築に向けての現状と展望に関して講演していただいた。自励力学系におけるLyapunov指数の非自励力学系への自然な拡張であるDichotomy spectrumとそれによるランダム力学系の分岐の特徴づけに関する活発な議論がなされた。Dichotomy spectrumは数学的にはきれいな性質を持っているが、その具体的な計算は難しくあまり具体的な系には適用されてこなかった。今回、佐藤らによりその具体的な例への応用がなされたことにより、そのDichotomy spectrumのsupの正負によりランダム力学系の分岐を特徴づける可能性が示されたとともに、臨界点を持つ写像の場合にはそのinfが常に負の無限大になってしまうためinfの方はそのような写像力学系に対してはあまり有用な情報をもたらさないであろうことが解明された。このような可能性及び問題点は具体的な応用がないとあまり認識されない問題であり、今後もこのような具体的な応用を通じて、何が非自励力学系の理解に有用な概念であるのか、という選別が行われ、非線形ランダム力学系の現象論の構築、および、それによるランダム力学系の理解が進んでいくことが期待されている。
既にできていること:
・いくつかの系のランダム力学系によるモデル化およびその系における現象の再現
・歪積力学系などの非自励力学系への種々の自励力学系の概念の拡張可能性の議論
できていないこと:
・自励力学系のようにランダム力学系として考察すべき自然な力学系のクラスを考える。
・自励力学系の概念の内、どの概念の拡張がランダム力学系の理解にとっても有用なのかを考える。
・一つの自励力学系の概念に対して、いくつかの自然なランダム力学系への拡張が考えられるとき、どの拡張がランダム力学系の理解にとって有用なのかを考える。
・以上のことを通して、ランダム力学系のどの部分が自励力学系の自然な拡張として理解されるかを明らかにし、その上でランダム力学系と自励力学系の質的な違いを明らかにすること。
② Liouville (Langevin, Schrödinger) 方程式をいくつかの物理量で張られる空間に射影することで得られる一般化ランジュバン方程式の解析法
一般化ランジュバン方程式は大自由度のLiouville (Langevin, Schrödinger) 方程式を少数自由度で張られる空間に射影することで得られる方程式であり、形式的には少数自由度だけで閉じた形になるため、複雑な系の動力学を解明するための有力な方法論である。この一般化ランジュバン方程式の歴史は古く、古くは森、久保ら[2]に始まり川崎の非線形Langevin方程式[3]において形式的には完成され、ガラスなどの遅い緩和を扱うため系の背後にある分布関数も時間発展する状況を記述するため、時間依存射影演算子法等に拡張されてきている。本ワークショップでは、河合らにそのレビュー、解析法および与えられた時系列から一般化ランジュバン方程式を構築するための試みの報告がなされた。 一般化ランジュバン方程式は、”ノイズ”項と”記憶”項と呼ばれる二つの項からなる[4]。”それらを厳密に計算することは縮約する前の方程式を解く以上に困難であるため様々な近似が考えられてきた。比較的よく用いられる近似としては、
・”ノイズ”項、”記憶”項は縮約された自由度に依存しない[5]。
・”記憶”項をFourier変換(Laplace変換)したものは有理関数とする[6]。この時、記憶項は有限個の指数関数の重ね合わせとして記述される。 という二つの近似であり、以上の近似の下、時系列からそれらの”ノイズ”項と”記憶”項およびその背後にあるいくつかの減衰モードを抽出するための方法論が議論された。今後、上の二つの前提条件を緩和していくことが、より複雑な系の動力学を理解するうえで重要になるのではないかと期待される。
既にできていること:
”ノイズ”項、”記憶”項は縮約された自由度に依存しない、”記憶”項をFourier変換(Laplace変換)したものは有理関数とする、という理想化の下で、縮約された自由度の他いくつかの自由度を付け加えることにより記憶なしのランジュバン方程式に変形すること。
できていないこと:
二つの理想化を緩和しより一般的な系に適用可能な方法論を作ること。揺動散逸定理が破れているような非平衡系において、物理的に自然な力のノイズ項と散逸項に分解するための方法論を確立すること。
⑨ ミクロマクロ双対性の視点からの量子古典対応
既にできていること:
化学ポテンシャルの概念を(ガロア理論的に)自然に導き出す数学的機構はAHKT 理 論(荒木・Haag・Kastler・竹崎)という形で既に出来上がっている。(ただし,そ の物理化学的意味や解釈の課題は放置されて来たので,その部分に関する考察を今回加えた。)
できていないこと:
「数理○○学」という領域を「分離」することにもろてを挙げて賛成というわけではないが,「数理論理学」,「数理言語学」,「数理物理学」,「数理生物学」等々, という名前を聞くのに対して,寡聞にして「数理化学」は聞いたことがない。「数学協働プログラム」という企画が何を目指すかに依ることだが,単に個別の研究課題に 即した化学と数学との共同研究,というだけの協力に終わらせることなく,化学の基礎概念とその構成に関係する議論から始めて,「数理化学」の構築を目指すかなり長期の展望に向けたactivityがあれば,種々の異なるアプローチを統一的に理解する ことによって理論展開が促進されるのではないか?そのために重要なのは,「数理○○学」という名前の本質を,数学との連携によって理論の概念構成に基いた柔軟な方法論の活用を重視するところに置くべきで,「厳密さ追求の自己目的化」ということには決して陥らないよう,絶えず注意を払うことが必要だと思う。
⑩ 周期軌道展開(古典、量子)の非双曲系、非断熱系への拡張
既にできていること:
周期起動展開を用いて量子準位を考えることは量子論黎明期から考えられていて,前期量子論におけるボーアによる水素原子内電子の量子化にまで遡る.その後,トーラス量子化などを経てカオス系における量子準位の周期軌道展開がGutzwillerによって確立されるに至り,量子古典対応を考察する半古典力学として知られている.一方,非断熱系ダイナミクスの古典対応としてはホッピング軌道や平均場上の軌道を用いることが多かったが,これら古典的軌道は概念の導入に恣意的な部分が多く,妥当性は当然のこと,周期軌道展開によって量子準位を考察できるのか不明であった.このような状況のもと,近年藤井らによってホッピング軌道の半古典的導出[FUJII1],および非断熱量子準位のホッピング周期軌道展開が行われ[FUJII2],ホッピング軌道が非断熱量子現象の適切な古典的対応物であることが示された.本研究会でも藤井からホッピング軌道の導出およびホッピング周期軌道展開の発表があった. できていないこと:藤井らの研究は1自由度に限られており,その多自由度への拡張は全くできておらず今後の課題である.特に,2自由度以上の系で現れるコニカル・インターセクションは光反応から光電変換デバイスにいたるまで多くの化学的現象を決定的に左右する重要なものである.本研究会で寺本らによってコニカル・インターセクションがあるクラスに分類できることが示され,多自由度非断熱系における周期軌道展開やトーラス量子化と寺本らの分類がどのような接点をもつのかは今後の興味深い課題の1つである. 本研究会で藤井が紹介したホッピング軌道は確率的にポテンシャルスイッチをおこす力学系としても解釈できる.歴史的に力学系の研究は非常に盛んに行われてきているものの,非断熱動力学・ホッピング軌道の力学系的理解は皆無といってよい.これはホッピング軌道の恣意性ゆえ,力学系研究者にとってホッピング軌道が興味の対象外であったためと思われる.しかし,ホッピング軌道の半古典的導出が確立した[FUJII1]現在においては,非断熱動力学・ホッピング軌道の力学系的理解(例えば,複数の断熱面間で不変多様体同士はどのように非断熱相互作用し得るか?)は,化学者と物理学者が協働してとりくむ課題だと考えられる. その他にも,高塚教授から指摘があったように,非断熱遷移は量子カオスと深い関係があることが知られている.さらに,M. Berryらが精力的に研究したように量子カオスは周期軌道展開の跡公式を通じて素数定理と関係があることも知られている.そのため,非断熱遷移と素数定理にも何か関係があることは十分考えられるが,そのような視点での研究は行われていない.本研究会で藤井が紹介したホッピング周期軌道による周期軌道展開では,ホッピング周期軌道に対して素因数分解を導入したのが本質的であり,まさに自然数の素因数分解との類似性を思わせる.このような状況のもと非断熱遷移と素数定理の関係を考察していくことは,分子の動力学に存在するかもしれない数学的実在をみつけることであり,化学者と数学者が協働で探求していくべき課題である.
[FUJII1] Mikiya Fujii, "Quantum and semiclassical theories for nonadiabatic transitions based on overlap integrals related to fast degrees of freedom", J. Chem. Phys. 135, 114102-1 – 114102-14 (2011)
[FUJII2] Mikiya Fujii and Koichi Yamashita, "Semiclassical quantization of nonadiabatic systems with hopping periodic orbits", J. Chem. Phys. 142, 074104-1 – 074104-10 (2015)
注釈および引用文献
[1] 例えば、自励力学系のアトラクターの非自励力学系への拡張として、forward attractor, pullback attractor等の種々の自然な拡張が考えられる。この場合、forward attractorは力学系の時間発展に対して不変ではないが、pullback attractorは力学系の時間発展に対して不変である、等の違いがあり数学的にはpullback attractorの方が扱いやすいということはあるかもしれない(Rasmussenら、Attractivity and Bifurcation for Nonautonomous Dynamical Systems, Springer (2007), Kloedenら、Nonautonomous Dynamical Systems, American Mathematical Society (2011)))。
[2] 森ら、Progr. Theoret. Phys. (Kyoto) 33, 423 (1965)).、久保ら、in Tokyo Lectures in theoretical Physics, edited by R. Kubo (W. A. Benjamin, Inc., New York, 1966), part I, p. 1.; R. Kubo, Rept. Progr. Phys. 29, 255 (1966)).
[3] 川崎ら、J. Phys. A: Math. Nucl. Gen. 6, 1289 (1973))
[4] ここで””としているのは、一般化ランジュバン方程式を非平衡系に拡張した際に、この”ノイズ”と”記憶”項と物理的に解釈できるかに関して必ずしも明らかではないからである。一般化ランジュバン方程式においては、常に”ノイズ”項と”記憶”項の間に揺動散逸定理が成立するように、”ノイズ”項と”記憶”項が形式的に分解されるが、一方で、非平衡系においては原田・佐々等式に示されるようにノイズと記憶の項の揺動散逸定理が破れる、ということがわかっているからである(原田ら、Phys. Rev. Lett. 95, 130602 (2005))。この問題を解決するため林らによるノイズ項と記憶項の新しい分解の試み(林ら、Phys. Rev. E 71, 020102 (R), (2005))もある。
[5] タンパク質の折り畳み等において、遷移状態が縮約した自由度の空間で広く分布する場合には、”記憶”項の縮約した自由度依存性が重要になるのではないかという指摘がある(Plotkinら、Phys. Rev. Lett. 80, 5015 (1998))。特にタンパク質の場合には、ほどけた変性状態と折りたたまれた天然構造の間で水和構造等も劇的に変化するので、”記憶”項の座標依存性が重要になるのではないかと期待される。
[6] 森の連分数展開(森ら、Progr. Theor. Phys. 34, 399 (1965))を有限次までで打ち切ったものに相当し、その場合に”記憶”項は有限個の指数関数の重ね合わせとして記述される。この連分数展開がどのぐらい広いクラスの解析関数に対して収束するのかに関しては、決定的な答えはないが(Bakerら、Pade Approximants, ENCYCLOPEDIA OF MATHEMATICS AND ITS APPLICATIONS, GAMBRIDGE (1994))、例えば連分数展開を有限次まで打ち切ったものは高々有理関数で複素平面上1価関数なので、ベキ的減衰を生むbranch cutを持つような解析関数等に対してはその連分数展開は元の関数に通常の意味では収束し得ない。しかしながら、いくつかのbranch cutを持つ特定の解析関数に対する連分数展開の収束性を議論した論文は存在し、それによると 1.与えられた複素関数に対してそのbranch cutは一通りには定まらないが、capacity (定義は先のBakerらの定義を参照のこと)が最小になるようなbranch cutが選ばれ、 2.そのbranch cutに沿って連分数展開の極が並ぶ、 というような収束性を示すようであり、このような場合には”記憶”項のベキ的な振る舞いは上のように選ばれたbranch cut上に並ぶ極に対応する指数関数の和として近似されると期待される。この他、解析関数が真正特異点、自然境界等の非孤立特異点を持つ場合、を含む非有理型関数に対する連分数展開の収束性の議論はあまりなく、この方面の発展がより複雑な記憶の緩和挙動を理解するために望まれている。 |