響き合う人とデータ―統数研プロジェクト紹介

第30回「統計エキスパート人材育成プロジェクト」

「模擬講義」を重ねて大学統計教員を育成

デジタル・トランスフォーメーション(DX)には、統計的手法を駆使して大量のデータを分析・解析することのできる人材が欠かせない。データサイエンス(DS)系の学部を創設する大学が増えつつある一方で、深刻な問題となっているのが統計教員の不足だ。2021年夏、統計数理研究所が中核機関となり、研修を通じて大学の統計教員を育成するプロジェクトがスタートした。

DS 系学部創設ラッシュで「統計教員が足りない!」

「欧米やアジアの大学にあって、日本の大学にないものは何だと思いますか?」。統計数理研究所の千野雅人特任教授は、そう問いかける。答えは「統計学科」。統計学を体系的に学ぶ統計学科がなく、これまで様々な分野の学科において、統計学を専門としている研究者のみならず、他分野の研究者が“応用統計学”的な側面から学生を指導してきた。

▲千野雅人特任教授

しかし、今やデータドリブンな意思決定は世界の潮流だ。2017年の滋賀大学を皮切りに、横浜市立大学、武蔵野大学、広島大学、長崎大学、立正大学がDS系学部を創設。他にも多くの大学がDSを学べる学科やコースを設立し、今後もこの傾向は続くと見られる。

ところが、ここで浮上したのが、統計学を専門とする教員数の問題だ。DSの中核をなす統計学を偏りなく網羅的に教えることのできる大学教員が圧倒的に不足していた。

そんななか、文部科学省は「統計エキスパート人材育成プロジェクト」を公募し、統計数理研究所を中核機関とするコンソーシアムの申請が採択された。まずは研修を通して、統計学の講義ができる「大学統計教員」を5年間で少なくとも30名育成する。さらに、これらの教員が中心となって全国の大学などで「統計エキスパート」を10年間で約500名育成する体制を構築するものだ(図1)。

図1:統計エキスパート人材育成プロジェクトの骨格。統数研が中核機関となり、参画機関の助教やPDを対象として研修を実施。ここで育成された大学統計教員が所属する機関で統計エキスパートを育てる仕組みだ。

「数理・データサイエンス・AI教育の全国展開」や「データ関連人材育成プログラム」など、ターゲットの異なる他の関連施策とも連携しながら、事業終了後も継続して人材育成の好循環システムを自立的に発展させることを目指す(図2)。

図2:政府の進める「AI 戦略2019」との関連。リテラシーレベルを育成する「数理・データサイエンス・AI 教育の全国展開」、エキスパートレベルを育成する「データ関連人材育成プログラム」に、大学教員レベルを育成する今回のプロジェクトが加わった。

統計の知見なき分析は「危険領域」との指摘も

そもそも、なぜ日本の大学には統計学科がなかったのか(図3)。一因と見られるのは、経済学や品質管理など「各専門分野の中で統計学が磨かれてきた」という日本独特の経緯だ。統計学の専門家がいて、経済や品質管理の問題を扱ってきた欧米とは逆の流れだった。「数学の1単元」として統計を学ぶ日本と、最初から独立した科目として統計学を学ぶ海外とでは、その位置づけが根本的に異なるとも言われる。

図3:各国と比較して、日本には統計学部を有する大学が極端に少ない。したがって、統計学会員数にも大きく水を開けられている。

しかし、DSを推進するうえで、統計学の知識が足りないことは由々しき問題だ。千野は、アメリカのデータサイエンティストDrew Conwayの考案した「ベン図」を使って次のように説明する(図4)。

図4:Drew Conwayの「ベン図」では、「統計学」のない「専門領域知識」+「計算機科学」の交わる領域は「危険」と指摘されている。

DSには、「計算機科学」「統計学」「専門領域知識」の三つのスキルが欠かせない。このうちのいずれのスキルが欠けても、それはDSとは言えないのだ。例えば「統計学」+「専門領域知識」は、伝統的研究と言われる。また、「統計学」+「計算機科学」では、機械学習が生まれた。

「問題は、『専門領域知識』と『計算機科学』だけで『統計学』のスキルがない場合です。この領域は最も問題となる『危険区域』と指摘されています」(千野)。というのは、コンピュータで分析結果を出すことはできても、その意味や経緯について理解していないため誤った解釈で研究を進めてしまう懸念があるからだ。日本は一刻も早く、統計エキスパートを増やす必要がある。

大学統計教員を育てるコンソーシアムを設立

プロジェクトの採択決定を受けて、2021年8月31日に、統数研が中核機関となる「統計エキスパート人材育成コンソーシアム」の設立総会を開催した。「5年間で30名の研修生受け入れを考えていましたが、事前の意向調査では50名を超える希望があり、予想以上の手応えを感じました」と千野は頬を緩める。

コンソーシアムに加盟したのは、東京大学や同志社大学など全国21の参画機関と、京都大学など6の協力機関(図5)。東京・立川の統数研のほか、関西方面からの参加に対応して滋賀大学にもサテライトを設置し、東西で研修を行う態勢を取っている。

図5:統計エキスパート人材育成コンソーシアムの参画機関と協力機関。全国で合計27 機関が加盟しており、関心の高さが伺える。

研修は、1期につき2年間で、3期にわたり実施する。10月4日には、第1期研修の開講式を開催した。第2期は2023年4月から、第3期は2024年4月から始める予定だ。「期ごとに自己点検や中間評価を行い、改善すべき点は次の期に生かしていくことで、大学統計教員や統計エキスパートを育成するより良い好循環システムを構築することを目指しています」(千野)。

今年1月には事務局として、千野がセンター長となり「大学統計教員育成センター」を統数研に設置(図6)。また、統数研内に「TESS(Training Experts inStatistical Sciences)運営会議」を組織し、椿広計所長、川崎能典副所長、山下智志副所長らとともに、プロジェクトの推進に関するマネージメントを定期的に議論している。

図6:コンソーシアムの運営・組織の概要。統数研の大学統計教員育成センターが事務局となって運営と研修を担う。

センターにはコンソーシアムの運営を行う「統括部」と研修を担う「研修部」があり、研修部では特任教授として雇用された6名の「シニア大学統計教員」がメンターとして研修生の育成や教育システム開発にあたる。

なお、教育システムの開発にあたっては、統計質保証推進協会と広島大学高等教育研究開発センターに委託し、海外の大学などでの統計学教育の最新情報を収集、参考にしている。

自由な発想の「模擬講義」で統計の面白さを伝える

「われわれの大きな目標は、経済学や医学、薬学といった各専門分野を尊重しつつ、きちんとした統計学を教えられる大学教員を育てること。決して“統計学者”の育成ではありません」と千野は強調する。具体的には、修士課程学生に対し「基本的な統計学の講義」「発展的な統計学の講義」「専門分野と統計学が融合した講義(2科目)」を教えられる教員だ。

第1期の研修生は、コンソーシアムの参画機関に所属する12名。工学、情報学、保健学、薬学、経済学などさまざまな学位を持つ博士たちだ。研修生1名につきメンターと副メンターが手厚く指導する。

研修の目玉は、「模擬講義」だ。これは、メンターの指導により培った統計学の知識の発表の場でもある。一人が教員役になって講義を行い、残りの研修生が学生役となって質問する。メンターでもある研修部長の中西寛子特任教授は「東京学芸大学教育学研究科の西村圭一教授から、この方法が最も効果的であるという海外論文を紹介され、アドバイスをもらいました」と振り返る。研修生は講義の体験を繰り返しながら、メンターとともに達成度を確認。結果をフィードバックすることで、「統計の教え方」を学んでいく。

▲中西寛子特任教授

模擬講義では、それぞれの研修生の自主性を尊重し、自由な発想で講義を組み立てるよう指導している。「大学院生には研究分野の話題を取り入れた講義が、学部生には何より面白いと思ってもらえる講義ができることが大事。その辺りは私たちメンターより若い研修生たちのほうが得意で、何が重要であるかを理解したうえで、人気アニメキャラクターのデータを教材にした研修生もいました」と中西は微笑む。

半年に一度、研修生本人とメンター、参画機関の研修担当教員が話し合って達成度を確認し、次クールの研修計画と研究計画を策定する。研修生たちは、教え方を学ぶとともに、最上位の統計エキスパートであるシニア教員からそれぞれの分野の研究などの指導を受ける。身につけたものを所属する参画機関へ持ち帰り、横展開することも重要な役割だ。

「すべてが初めてなので、私たちも手探りです。第1期の研修生は、研究や教員の仕事をしながら参加しているので大変なのに、皆とても意欲的。一緒に研修をつくり上げようと頑張ってくれて、本当にありがたく思っています」と中西は感想を述べる。コロナ禍の影響でオンライン研修ではあるものの、研修生同士のコミュニケーションも活発だという。

持続的に統計人材を増やし データに基づく政策決定を

統数研は日本に数少ない統計の専門家集団として、これまでにも高度な統計人材の育成に取り組んできた。大学院レベルの統計教程で教育する「リーディングDAT」や、各分野からの研究者の出向受け入れなどだ。これらの直接的な教育に加えて、今回のプロジェクトでは「統計エキスパートを育てる教員の育成」という、いわば間接的な教育システムを手掛ける。

全国の大学から参集した研修生が、所属する大学で統計教員となって次世代の統計エキスパートを育て、育成された人材が指導者となってさらにその次の世代を育てる。そうして人材育成の好循環システムが構築されたとき、プロジェクトの目標は達成される。

総務省統計局長を務めるなど、長らく行政官として統計に携わってきた千野は、「このプロジェクトの成果が、日本社会にEBPM(Evidence Based Policy Making、証拠に基づく政策立案)が真の意味で浸透する契機になることを願っています」と、先を見つめる。Statistician(統計家)が‘ Best Business Jobs’ ランキングで第3位になったアメリカのように、まもなく日本でも統計エキスパートたちがEBPMを牽引していくに違いない。

図7:統数研に発足した大学統計教員育成センター。左から椿所長、川崎副所長、千野センター長、山下副所長。

(広報室)

新型コロナウイルス感染拡大防止のため、本インタビューはオンラインで行われました。


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