響き合う人とデータ―統数研プロジェクト紹介

第13回「高度信用リスク統合データベース コンソーシアムと損失モデル」

「いつか起こるかもしれない金融危機」に備えるDBと損失率モデル

金融システムの安定には、銀行が貸付金を回収できないリスクを管理することが何よりも重要だ。その「信用リスク」計算の鍵を握るのが、デフォルト確率(PD)とデフォルト時損失率(LGD)。だが、デフォルトした企業からしか得られないLGDは、データを集めるのが困難でモデル化が遅れている。統計数理研究所は、複数の地方銀行のコンソーシアムを設立し、10年以上かけて蓄積したデータをもとに、世界で初めてのデータ統合LGDモデルを作成した。

信用リスクを決めるデフォルト確率と損失率

▲山下智志副所長

世界を揺るがせたリーマンショックから10年。当時、連日のようにマスコミを賑わせた「信用リスク」という言葉は、景気が回復したいまでは、ほとんど聞かれなくなっている。

信用リスクとはいったい何か。端的に言えば、銀行が企業に融資した資金が、返済されない可能性のことだ。統計数理研究所リスク解析戦略研究センター長でもある山下智志副所長は、「信用リスクの発生要因は二つあります」と説明する。

一つは、融資先の企業がデフォルトするかしないか。デフォルトは、法的な倒産には至っていないものの、通常の融資は困難な状態。銀行はデフォルト確率(PD)、すなわち融資先がデフォルトする確率がどのくらいあるかを管理しておく必要がある。

もう一つは、デフォルト後に債務を返済する能力があるかないか。融資先が仮にデフォルトしたとしても、担保を売却するなどして貸し付けた金額が戻ってくるならば、銀行にとって損失にはならない(図1)。従ってデフォルト時損失率(LGD)、すなわち銀行側が貸付金をどのくらい「回収できないか」を予測しておくことが非常に重要だ。

金融機関から見た企業の信用リスクはこの二つの要因によって決まり、貸出額とPDとLGDの掛け算が「損失」となる。

「信用リスクを精緻に計算することの重要性は以前から認識されていましたが、それが決定的になったのは、『バーゼル合意』が改定されて、バーゼルUになったときです」と山下は話す。

図1:デフォルトしても経営状態が回復すれば正常企業に復帰できる。貸し倒れ損失が発生するのは、デフォルト後に資金が回収できないまま倒産・廃業に至った場合と、融資を続行しても経営状態が回復せず、倒産・廃業に至った場合。

バーゼルUを受けて銀行にリスク計算を推奨

バーゼル合意は金融のグローバル化に伴い、金融システムの安定化と競争の公平性を維持する目的で、1988年に初めて成立した。銀行の持つ信用リスクに焦点を当て、リスクアセットの8%相当の自己資本を保有するなどの国際基準を定めたものだ。

日本はこれを受けて2007年3月からは、国際取引を行う銀行に対し、統計モデルを作成して自行の信用リスクを計算するよう強く推奨した。これをバーゼルUという。

こうしてバーゼルUの施行を前に、全国の銀行が一斉に統計モデルの作成に乗り出した。

しかし、複雑な要素が絡み合う信用リスクを精度よく算出できる統計モデルを作り上げるには、ファイナンス統計の専門家の関与が不可欠。そこで、金融庁の特別研究員を兼務しバーゼル委員会の評価担当でもあった山下を中心とする統数研チームが、銀行の課題に対応することになった。

山下は中小企業信用リスク情報データベース(Credit Risk Database)整備事業を行うCRD協会に設立時から協力しており、同協会には毎年約160万件の企業のデフォルト情報を含む決算データが蓄積されている。日本の中小企業に関する信頼できる最大のデータベースとして認知され、CRD協会が作成するモデルは銀行や信用保証協会などの政府機関などにも利用されている。

取引先のデフォルト後データを持ち寄るコンソーシアム

▲田上悠太特任助教

PDを計算するモデルは、CRD以外にも日本リスク・データ・バンクの提供するRDB、全国地方銀行協会のCRITSがすでに世に出ている。残る課題は、LGDを計算するモデルだ。

「PDを計算するのは比較的簡単で、CRDでも5種類ほどのモデルを提供しています。しかし、LGDをきちんと計算できるモデルは、一部の大銀行内部で用いられている簡便なモデルを除きどこにも存在しません」と山下は明かす。

なぜか。まず、データベースがない。というのは、デフォルトしていない状況で計算するPDではすべての企業が対象となるのに対し、LGDの場合、デフォルトした企業のデータしか利用できないからだ。

日本企業のPDは1%程度なので、その時点でデータ数が100分の1になってしまう。このため、一つの銀行だけでは十分なデータを得ることができない。銀行同士でデータを持ち寄ることができればいいが、LGDは各行の営業成績にも関わる秘匿性の高い情報であることから、それも難しいという。

しかし、日本にLGDのデータベースや統計モデルがないのは問題だ。複数の銀行からデータ提供を受け、統合データベースをつくれば、分析が可能になる。この課題に取り組むことができるのは、ファイナンス統計学の専門家を擁し、しかも中立的な立場の学術機関である統数研が最もふさわしい。そこで山下は「高度信用リスク統合データベースコンソーシアムと損失モデル」のプロジェクトを立ち上げた。

地方銀行をメンバーとするこのコンソーシアムの主なミッションは、加盟銀行の取引先のLGDデータを統合したデータベースを構築することと、これを基にオリジナルのLGDモデルを作成することだ(図2、3)。CRDモデルを、各行共通モデルを前提としたレディーメイドとすれば、ここで扱うのは銀行の個別戦略を反映したモデル、いわばオーダーメイドのモデルということになる。

2007年に1行からスタートし、現在では5行がこのコンソーシアムに参加。統数研からは山下のほか、現在は田上悠太特任助教がこのプロジェクトを担当している。

図2:高度信用リスク統合データベースコンソーシアムプロジェクトの活動。 図3:データベースの集計例。

銀行ごとに異なるニーズや定義のすり合わせがポイント

LGDは、データベース構築の難しさもさることながら、モデルの作成にも困難な問題がつきまとう。

「LGDは、担保や保証の定義によって、計算の仕方が大きく変わります。このためモデル作成にあたっては、高度な統計理論の知識と、金融の商習慣についての知見の両方が求められるのです」と山下は言う。

例えば、債権回収の仕方は銀行によってさまざまであり、回収にかかる期間も大きく異なる。地域密着で地元企業をじっくり支援する方針の銀行では、デフォルトしてから回収が終わるまで5年ほどかかるケースも少なくない。つまり、すぐデータを取れるデフォルトデータと違い5年後でなければデータが取れない。

また、「デフォルト後の債権回収について何を知りたいか」は銀行ごとに異なり、しかも最初はそれが明確になっていないことが多い。通常、統計に使う関数y=f(x)では、左辺yは決まっていて、右辺のf(x)をどうするかが問題になる。しかし、この場合、左辺yをどう定義するかをまず決めなければならない。そこに難しさがあるのだという(図4)。

3カ月に一度開催するコンソーシアムの会合では、加盟する銀行の担当者が統数研に集まり、その定義について2年にわたり議論を続けた。

図4:金融のグローバル化などにより、新たな信用リスク評価基準が求められている。

価値が目に見えにくくともなくてはならない社会の防波堤

コンソーシアムを立ち上げてから10年がたち、LGDデータの蓄積は着実に進んでいる。すでにLGDモデルのプロトタイプも完成した。山下は「5行のLGDデータを統合したモデルは世界初だと思います。LGDに関しては、国際的に見ても日本がトップと言えるでしょう」と胸を張る。

山下は信託銀行を経て統数研に入所し、一時期は金融庁の特別研究員としてバーゼル委員会の委員を務めたことがある。その経験を踏まえ、日本社会に対しこれまで一貫して、LGDの重要性を提唱してきた。

「銀行の損失は貸出額、PD、LGDの三要素で決まるにもかかわらず、日本ではPDばかりが取り沙汰され、計算の難しさもあってLGDには手を出さない地方銀行が多いのです」。山下は、そう指摘する。

大学の商学部で統計技術の重要性を感じた田上は、総合研究大学院大学で山下の門を叩き、修了後に統数研の特任助教となった。「このプロジェクトに関わってみて、改めてリスクマネジメントにはデータサイエンスや統計の視点が欠かせないと実感しています」と話す。

いまは景気がよく、企業倒産が少ないことから、信用リスクへの銀行の関心も薄れがち。いつ訪れるとも知れないリスクに備えて収益を逃すことを避けたいという風潮がある。しかし、どんな経済状態のときでも、金融危機が起こる確率は一定程度存在する。何がリスクファクターになるかは起こってみなければわからないが、トリガーはいたるところ潜んでいるのだ。

リスク研究は、リスクが眼前に現れない限り価値が伝わりにくく、その意味では報われにくい。けれども、こうした研究はLGDデータがいったん途切れたら、ゼロからやりなおしになってしまう。だから諦めるわけにはいかない。

メンバーの銀行からニーズをていねいに吸い上げ、提供されたデータから得られた知見をきちんとフィードバックするなど、コンソーシアム全体のモチベーションを維持する幹事役を担うのは田上だ。「あまり目立つ分野ではないですが、世の中のためになるように頑張りたいと考えています」と思いを語る。

「企業が短期的な視点で収益を追うのは仕方がない面もあります。ただ、国全体がそれに追随すれば、もしものときにどうなるか。われわれには、そのための防波堤をつくっておく役割があると思っています」と山下も言う。

統計を使って、日本経済を見えないリスクから守り、国を支える――。統数研ならではの存在意義が、静かな光を放つ。

(広報室)


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