コラム

ジェームス・グレゴリーと微積分

逸見 昌之(統計基盤数理研究系)

共同研究や国際会議への参加などで海外出張すると、海外の様々な大学を訪れる機会があるが、時には大変古い大学に出会うことがある。私が数年前から訪れている、スコットランドのセント・アンドリュース大学は1413 年に設立されたスコットランド最古の大学で、イギリス全体でも、オックスフォード大学、ケンブリッジ大学に次いで3番目の古さである。古い大学には、現代の文化の基礎を支える様々な歴史が詰まっているが、セント・アンドリュース大学の物理・天文学科の一画には、ジェームス・グレゴリー(James Gregory)という人物の業績を紹介するコーナーがあり、グレゴリー式反射望遠鏡など、天文学や物理学に関する業績の他に、数学、特に微積分に関する業績がかなりのスペースを割いて紹介されている。しかも、グレゴリーは、ニュートンやライプニッツと並んで、微積分学の創始者の1人であるとまで書かれている。私は、グレゴリーの名前が付いた級数があることくらいしか知らなかったので、それを見てやや意外に思ったが、グレゴリーの微積分への貢献があまり知られなかったことを象徴するような逸話として、例えば次のような話がある。

ジェームス・グレゴリーは、チャールズ2世が1668 年にセント・アンドリュース大学に設立した、王立数学教授(RegiusProfessor of Mathematics)に最初に任命され、当時、王立協会で司書をしていたジョン・コリンズという人物と親しく手紙のやり取りをしていたが、1671 年の手紙に、arctanを含む7つの関数に対する冪級数展開を記した。そこには導出過程の記載はなかったが、それより少し前に別の人物がグレゴリーに宛てた手紙の裏に、グレゴリーがそれらの関数に対する高階微分の計算を記し、その結果のほとんどは、冪級数展開の係数に対応していた。(このことから、グレゴリーは、ブルック・テイラーが1715 年に導入する40 年以上も前に、テイラー展開の考え方を持っていたと推察されている。)

一方、アイザック・ニュートンもほぼ同時期に微積分に関する仕事をしていたが、1670 年の暮れに、ニュートンとも交流のあったコリンズがグレゴリーに、ニュートンによるsin,cosを含むいくつかの関数の冪級数展開の結果を送り、ニュートンは、任意の関数の冪級数展開が可能な普遍的な方法を有していることも伝えた。その後、グレゴリーは自分自身でも冪級数展開の方法を考え、ニュートンのものとは異なる上記の関数の冪級数展開の結果をコリンズに送ったわけだが、ニュートンによる方法を再発見したに過ぎないと思い込み、自分の結果は出版せずに、ニュートンが出版するのを待とうと考えた。実は、ニュートンによる普遍的な方法というのはグレゴリーのとは異なるもので、ニュートン自身がテイラー展開の着想に至ったのは1691 年頃と言われている。

またグレゴリーは、他にも例えば、1668 年に出版された本の中で、微分と積分が互いに逆の関係にあることを幾何学的な言葉によって定理として述べ、その証明を与えたが、これは、出版された形で初めて微積分学の基本定理について述べたものと考えられている。

当時まだ若かったグレゴリーは、中世のしきたりの残るセント・アンドリュース大学ではカレッジへの所属が認められず、図書館の上の部屋で研究をしていたが、1674 年にエジンバラ大学の教授となってからは環境が良くなり、アクティブに研究を続けた。しかしながらそれは長くは続かず、約1年後、学生に木星の衛星を見せている最中に脳卒中に襲われ、その数日後に36 歳の若さで亡くなってしまったそうである。

グレゴリーは、その後の微積分の発展を目にすることはできなかったが、もし、もっと長く生きて、自分の研究をもっと出版していれば、ニュートンやライプニッツと並ぶ微積分の創始者の1人として、より広く認知されていたかも知れない。

微積分学の基本定理の展示パネル

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