コラム

測りすぎ?

小山 慎介(モデリング研究系)

 コロナ禍によって増えた在宅勤務で浮いた往復二時間半の通勤時間を研究や読書に使っている(実に有意義な時間だ)。コラムのタイトルはこの時間を利用して最近読んだ本のタイトルだ。【「測りすぎ:なぜパフォーマンス評価は失敗するのか?」ジェリー・Z・ミュラー著、松本裕訳、みすず書房】

 今日あらゆるところで「説明責任(アカウンタビリティ)」が求められる。説明責任とは本来、自分の行為に責任を負うという意味のはずだが、それが多くのところで数値化された目標や実績を公表することで「説明する責任」が果たされている(つもりになっている)。「数値化」は今やどこでも聞かれる言葉だ。透明化のもとに目標や実績が標準化された測定基準を通して数値化され、それに報酬や懲罰が紐づけられ、個人や組織が管理される。当書は、測定基準への執着によって引き起こされるさまざまな機能不全や弊害について語った本だ。

 測定基準への執着は、個人的経験と才能に基づいておこなわれる判断を、標準化されたデータに基づく数値指標に置き換えるのが望ましく、それを公開することで説明責任が果たされ、かつそれらの組織に属する人々への最善の動機付けは、測定実績に報酬や懲罰を紐づけることであるという信念に基づく。それが実践されたときに意図せぬ好ましくない結果が生じるにもかかわらず、こうした信念が持続している状態が測定執着である。

 測定執着が起こるのは、重要なことすべてが測定できるわけではなく、測定できることすべてが重要なわけではないからだ。求められる成果が複雑なものなのに、簡単なものしか測定できない。測定されるものばかりに注目が集まって、ほかの重要なことはないがしろにされがちになる。測定基準に執心している組織がこの事実に気づくと、もっと多くの測定をしようとして、データを集めることにますます多くの時間と労力が費やされる。測定基準が成果主義や格付けの判断基準になると、測定しやすい短期的目標の方が長期的目標よりも重要視され、リスクを取る勇気やイノベーションが阻害されたり、さまざまな手段を通じて実績指標を操作する不正や改竄が引き起こされる。さらに競争原理がこの傾向を助長し、本来の目的を忘れて手段が目的化してしまう。しかも歪められたかたちで。

 このような測定執着の事例が、大学、学校、医療、警察などの公共サービス、軍、ビジネスと金融、慈善活動と対外援助など様々な分野で具体的に挙げられている。身近なところで思い当たることはいくらでもある。大学評価やランキング、学術的生産性の評価、増え続ける書類、国際的競争力低下、研究不正などなど。

 測定そのものが問題なのではない。対象が適切に測られたとき、数値は客観性を担保する。測定される対象が無生物に近いほど測定はしやすいが、人間の行動に関わるものであると測定の信頼性は低くなる。対象は測定に反応することができるからだ。特に成功と失敗を定量化する類の測定だと、測定の正当化をねじ曲げるかたちで反応したり、報酬を望むほど測定の正当性を強化する方向に反応する。

 大事なことはなにか?著者は最後にこう述べる。「重要なのはひとつには経験、もうひとつには定量化できない技術だ。重要な事柄の多くは、標準化された測定基準では解決できないくらいの判断力と解釈力が必要となる。最終的に大事なのはどれかひとつの測定基準と判断の問題ではなく、判断のもととなる情報源としての測定基準だ。そのためには測定基準にどの程度の重みをもたせるのか、その特徴的なゆがみを認識できているか、そして測定できないものを評価できているかどうかわかっていることが重要となる。近年、あまりにも多くの政治家、企業経営者、政策策定者、教育責任者が、その点を見失ってしまっているように思えてならない。」われわれ数字を扱う専門家も肝に銘じておくべきことだろう。

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