コラム

統計数理科学の社会適用と倫理

椿 広計(統計数理研究所長)

▲椿広計所長

JSTでの「科学技術のELSI(Ethical, Legal and Social Implications)への包括的実践研究開発プログラム」に代表されるように、設計科学すなわち「社会のための科学」における倫理側面は文理融合の総合知と共に急速に注目されつつある。

この種の議論は、臨床統計分野では古くからあった。私は1981年から6年間、佐藤倚男先生(東京大学医学部教授)の土曜研究会に参画した。佐藤教授は、1972年「臨床評価誌」刊行の辞で、臨床薬理学を「倫理を大前提とした上で薬学、薬理、毒性、統計、心理、情報処理など各分野を総合したシステム」と位置付けた。その上で、「臨床以外の各分野との協同プロジェクト」と「各分野の専門家が原則論を論議し、個々に計画を作成してゆくための広場」が必要と論じた。佐藤教授は、我々学生に臨床研究がRegulatory Scienceであり、開発側と許認可側との利害相克が存在することを強調した。プラセボ対照試験であっても、新医薬品の有効性を前提に開発側が片側仮説の試験計画を立てるのは非倫理的、と教えられたのもこの頃である。佐藤教授の指示で光石忠敬弁護士が主宰するGCP(Good Clinical Practice)の勉強会にも参加し、倫理・法理の観点から、臨床研究の倫理規定である「ヘルシンキ宣言」の解釈を勉強させられたのもこの頃である。その後、土曜研究会では標準治療確立分野での臨床試験計画と統計的推論の議論が長期にわたり、土曜グループの藤田利治先生や私が、「同等性(非劣性)推論」を厚生省「臨床試験統計解析指針」に世界で初めて提示したのが1990年頃である。標準治療が存在する領域ですら、統計的推論の恣意性を一つの理由にプラセボ対照試験を推奨した米国FDA(食品医薬品局)のTemple博士との論争や、米国が、プラセボ利用をヘルシンキ宣言改訂で可能にする倫理規範退行化圧力を悲しく見守っていたのも苦い思い出である。以来、ヘルシンキ宣言改訂を逐条的に調べるのが習癖となった。

さて、全く別分野のことだが、1988年田口玄一博士の紹介で、米国タグチメソッドの研究動向偵察のために、MITなど5つの大学とGMの研究所を訪れた。その時、ミズーリ大学工学部長宅で「日本の大学工学部で倫理教育はされているか?」と質問された。「やっていない」と返答すると、「いくら統計的管理技術がしっかりしていても、倫理の裏付けがなければ意味が無い。技術倫理を学べ。」と言われた。医学も工学もあまり変わらないのかと考えたが、技術倫理の学び方が、当時は分からなかった。

1993年から約10年間、環境適合設計標準化の国内責任者を任された時に読んだのが、丸善のHarris et al.日本技術士会訳(1998)「科学技術者の倫理その考え方と事例」である。技術専門職の倫理的行動が、当該領域で社会のためにベストを尽くす行動、すなわち多目的最適化行動と、その意思決定により影響をうける個人の不可逆的損失を回避するための制約の綱引きで決まることを学んだ。倫理の本質は極めて数理的である。そして、倫理規範の進化とは、個を守る制約の厳格化であることも明確に意識できるようになった。環境基準をどのように設定するのか、それが時代の技術力や経済観念によりどう変わるのかも理解し、大気汚染や食品安全分野も含め、当局側統計家としてぶれない対応ができるようになった。科学技術倫理というと、日本では研究不正のような話ばかりが強調されるが、社会のための科学的意志決定のあるべき姿を示す指針が倫理であり、Harrisの本にも確率的推論の思想は見え隠れしている。統計家が社会的意思決定に際し、数理的方法の選択のよりどころとするのが、人文学や社会科学など価値選択のための学術として、数理科学とも一脈通じる倫理学なのである。

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