コラム

複雑系生命と統計学

坂田 綾香(モデリング研究系)

 生命現象の根本は、分子の生化学反応にあります。分子を支配する物理法則の固さと、生命が実際に見せる柔軟さの間には、大きなギャップがあるように見えます。また生命の世代方向の変化、すなわち進化に関しても、遺伝子レベルの微小な変化と目に見える形質の変化の間には、やはり人間の想像力では埋めがたい大きなギャップがあります。巨視的なスケールの生命現象について、その背後にある小さいスケールの現象を含めた体系的な理解を得ることは、私の研究目標の一つです。このような考え方は、統計力学を通して学びました。

 統計力学は、巨視的な観測量に関する法則を記述する熱力学の体系を、微視的な分子の力学法則により説明するために整備されました。分子の存在を仮定した理論は早くから存在していましたが、アインシュタインによるブラウン運動の理論とそれに続く実験により分子の存在が確かめられたことで、微視的な世界と巨視的な世界を結びつける統計力学が確立されました。同様のパラダイムシフトは、生物学においては分子生物学の登場に対応します。分子生物学以前にも、形質情報を伝える粒子状の物質の存在がメンデルによって示されていましたが、遺伝子の存在が確認されたことで、生命現象を分子レベルから理解するという目的意識が生まれました。

 しかし、全ての生命現象を個々の分子の振る舞いに帰着できるのか、という問いが生まれます。集まった分子は少なからず相互作用をしており、分子1つの性質を明らかにするだけでは全体の理解に到達しません。この点を踏まえ、生命システム全体としての生命の理解を目指すのが、複雑系生命と呼ばれる研究分野です。私は学生時代を複雑系生命の研究室で過ごし、Stuart Kauffmanによる著書「自己組織化と進化の論理」の影響を大きく受けました。Kauffmanは、遺伝子間の相互作用の複雑さを変えることで、適応度地形の凸凹度合いが変化し、進化のダイナミクスの複雑さが変化することを数理モデルにより示しました。これは定性的なモデルに過ぎず、実際の生命現象を説明するものではありませんが、微視的な遺伝子の相互作用によって進化のダイナミクスの複雑さが変化するということを示したことに大きな意義があります。

 さて、生物は生化学的リソースによって構成されるモデルを採用していると解釈することができます。例えば遺伝子を用いた遺伝情報の表現は、生命の情報処理・情報伝達のモデルと見なすことができますし、視覚野における信号処理の方法は外界を表現するモデルであると見なせます。これらの生物が採用するモデルは、生化学的コストや、動力学的安定性などに対する自然淘汰の結果として選ばれた、いわば生物学に妥当なものであると考えられます。当然ですが、進化を通したモデリングは、予測誤差最小化などの指針に基づく統計的モデリングの方法論とは全く異なります。統計学的手法により、生物学的妥当性を抽出することは出来るのでしょうか。もちろんゼロから生命のモデルを構成することは困難ですので、経験的に得られている知見を導入し、さらに複雑系生命における考え方や概念を導入することが必要だと考えます。統計的モデリングは、一般に個々の現象由来のデータに対して適用され、数理的方法により現象の本質を抽出し、定量的理解を導きます。一方、複雑系生命では概念的で定性的なモデリングを通して、生命現象における普遍性の発見を目指します。統計学の考え方と複雑系生命の考え方は相補的な関係性にあると言えます。複雑系生命と統計学の相補的融合は、生命現象に対する新しいアプローチを与えるのではないかと期待しています。

ズーラシアのオカピ(著者撮影)。20世紀になってから発見された珍しい生物で、キリンの祖先とされている。2016年に、オカピとキリンのゲノムの塩基配列が比較され、キリンの長い首が2つのタンパク質群に関する遺伝子の変異によりもたらされたことが示唆された(Nature Communications 7, 11519 (2016))。

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