研究室訪問

先端医療の確かなエビデンスづくりに貢献する統計学

 「国立の科学研究所の雰囲気を知りたい」と、教師に引率された高校生らが統数研を訪ねてくる。統計学の魅力を若者たちに理解してもらいたい。各系の代表者が研究時間を割いて対応する。

 「私たちにとって一番大切なものは何でしょう?それは健康ですよね。病気になった時は、自分の体に本当に合った治療を受けることが多くの人の願いです。薬の効き具合など、その人に最も効果的な治療の選択に、統計学は大きく役立つことがあります。」松井茂之さんの講義はいつも柔和な口調で語りかけるようにして進められる。若者たちは統計学をひときわ身近な科学として感じ取っているように見える。

 「まずは大学の受験勉強をしっかりやろう。そして、統計数理という学問があることも覚えていてください。」かれらは松井さんのエールの言葉とともに統数研のことを忘れないはずだ。

顔写真

松井 茂之
データ科学研究系
多次元データ解析グループ教授

臨床現場の治療の有効性と安全性を検証

 松井さんは主に、臨床医学がかかえる問題解決のためのデータの収集と解析の方法を研究している。各種のがん、高脂血症、骨粗鬆症などの慢性的疾患から、筋萎縮性側索硬化症などの希少疾患まで。これまで実にさまざまな病気の臨床試験に関わってきた。臨床の現場では、客観的な根拠(エビデンス)に基づいて医療を行うことが求められる。次々に開発される新薬。治療が難しい病気であるほど、その有効性と安全性に関するエビデンスを求める医療現場からの要請は切実だ。従来からある治療法はほんとうに有効なのか。新しい治療法はさらに有効なのか。重大な副作用の問題はないか。

 そもそも人は同じ薬を投与されても、遺伝的特性の違いや環境によって反応は千差万別となる。ある治療法が、すべての状況下で有効であるとは限らない。また、医師が与えた治療法から患者が離脱してしまう例もある。臨床でのさまざまな出来事から、エビデンスといえるものを抽出するためには統計的手法の活用が欠かせない。「医学統計学は、健康問題の解決への貢献があり、それが医学界、ひいては社会から認められてはじめて存在意義を見いだせる。このことを常に念頭において研究している」と松井さんは言う。

ただ一つの目的にとらわれ過ぎると、現実の問題解決につながらない

がんの診断・治療の最前線に有効な手法開発

 現在、がん患者のアウトカム(予後や薬剤反応性など)を診断するための分子マーカー研究に熱心に取り組んでいる。電子・光工学の飛躍的な発展の成果であるDNA マイクロアレー(DNAチップ)を用いた臨床研究により、患者から採取したがん細胞から一度に数千もの遺伝子の発現量が測定されるようになった。この技術を利用して診断に役立つ遺伝子を探すことが、がん治療を飛躍的に進歩させている。しかし、統計解析のやり方によっては思わぬ落とし穴に直面する危険もあるという。

 予後関連遺伝子のスクリーニング(選抜)では二種類のエラーが生じる。その一つは「ほんとうは予後関連遺伝子でないのに選抜してしまう」という偽陽性(false positive)であり、偽の発見成果につながる危険性がある。もう一つの誤りは、「ほんとうは関連遺伝子であるのに選抜されない」という偽陰性(false negative)だ。これら二つのエラーはトレードオフの関係があり、本来は、両者のバランスをとって遺伝子を選抜すべきである。それを行うために松井さんが開発したのは「階層混合モデルを用いた経験ベイズ推定法」だ。これは、全遺伝子を関連ありとなしの遺伝子に分離し、関連ありの遺伝子については予後との関連の大きさ(効果サイズ)の分布を推定する(図2)。これによって、偽陽性と偽陰性の大きさを見積もることができ、さらには、将来の臨床研究で偽陰性を制御するために必要な患者数の設計にも役立つ(図3)。また、選抜した任意の遺伝子セットの予測精度を見積もることもできる。それは「従来の関連遺伝子の検出のための多重検定や機械学習法等を用いたアウトカムの予測解析とは異なる新しいデータ解析の枠組みを与えるもの」だという。

先端医療開発のための医学統計学の研究体制づくり

 「現実社会の具体的な分野で役立つ統計学者を心がけたい。私の場合、臨床医学の最前線で行われている医学基礎研究から臨床応用への“橋渡し研究”に役立つことが当面の目標です。」その口調には決然としたものが感じられる。

 各診療科に細分化された臨床医学の特異性を理解し、そのうえで問題の設定と解決に取り組むというハードな研究スタイル。基礎医学の奥深い部分に考察を及ぼすことも。「医学統計家の貢献は、とかくデータ解析の部分に焦点があてられがちだが、質の高いデータを十分収集するための研究計画への貢献がより重要だ」と松井さんは話す。「一つ一つの臨床研究での問題解決はもちろん、できればそれを超えて、治療法や診断法の開発全体のストラテジーの策定にまで関与し、貢献したい。ただ一つの目的にとらわれ過ぎると、現実の問題解決につながらない。」

 松井さんは「医学統計学の研究と実践のための強力な体制の構築」に自分の大きな使命を見出すようになった。その足がかりとして、全国の医学統計家のネットワークを2010年中に新たに旗揚げする計画だ。「この分野の後進の育成につなげなければならない。」笑顔が引き締まり、決意あふれる強い言葉が残った。

(企画/広報室)

図1.医学研究での統計学の役割


図2.多発性骨髄腫のマイクロアレー研究での予後関連遺伝子の探索.約5 万の遺伝子について、発現量と生存時間の関連の大きさを表す指標(Z-score)を求め、分布で表した。階層混合モデルにより、予後と関連する遺伝子の分布(赤)と関連しない遺伝子の分布(青)に分離。


図3.偽発見率と感度の関係.Z-score上でのカットオフ値を変えたときの偽発見率(FDR)と感度(sensitivity)の関係。感度とは、ほんとうは関連遺伝子であるときに、それが正しく選抜される確率(=1 − 偽陰性の確率)に対応。患者数Nを多くすると感度が高くなっていくことがわる。

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