研究室訪問

ベイズ的方法を用いて現実社会の問題に挑戦

 1980年から統数研に勤務し、「一貫して、ベイズ的方法の実用的な可能性と、その限界をさぐるために、様々な現象を追いかけてきました」と語る。

 英国の数学者、ベイズ(1701〜1760)が考察した手法は、結果から原因の事後分布を導き出すものだが、長らくその実用性が疑われてきた。時には神学的な論争の対象にもなったという。しかし、1980年前後から急速に見直され、実用的な価値を評価された。「ベイズは私の武器。困難な問題に解決の糸口を見つけることができる。そう思うことで自分を励まし、現実社会と向き合ってきた。」東京湾の汚染問題は、柏木さんの統計学を具体的な課題に役立たせる舞台のひとつとなった。

東京湾の水質のモニタリング

顔写真

柏木 宣久
データ科学研究系
多次元データ解析グループ教授

 人々の生活に直結する「江戸前の海」。統数研に要請された共同研究の課題は、赤潮・青潮の発生に苦しむ東京湾の水質の現状把握だった。

 赤潮はプランクトンの異常な大量発生によって生じる。一方、硫黄イオンが大気中の酸素と反応して青色または白濁色となる青潮は、貧酸素の水塊の湧昇がもたらす現象だ。双方とも漁業に大きな被害を与え、水質悪化の象徴といわれる。主原因は河川を通じて流入する有機汚濁物質であり、赤潮は二次汚濁として海域のCOD(化学的酸素要求量)を高め、青潮の原因ともなる。その発生には、窒素やリンの濃度が高いという必要条件のほかに温度や日照の積算時間も関与する。

 沿岸自治体(東京都、神奈川県、千葉県、横浜市、川崎市)は海の汚濁防止対策の基本となる水温、塩分、CODなどのデータを蓄積してきた。しかし、全地点で同時に採水したデータではないので気象や海況などの影響を受け、正しい全体像をとらえにくいという欠点があった。柏木さんらは湾内41地点での測定データを用い、「ベイズ型季節調整」という時系列解析手法を適用して水質濃度の時空間分布図を作成した。

 多くの事実が発見された。たとえば、現在まで水温が上昇し続け、貧酸素水塊が増大していることや、河口付近で生じる低塩分域は西側に沿う形で南下することが分かった。これまで海上保安庁などのブイの海面移動の調査から、東京湾の潮流は時計のように右回りだと思われてきたが、測定値の「不規則変動成分」を除去する統計処理によって、実は左回りと判明した。

現場に行かなければ深刻な問題の解決にはつながらない

環境汚染の発生源の特定

 柏木さんが痛感したのは、環境管理にとって汚染発生源の特定が本質的な問題であることだった。発生源を特定できなければ有効な対策を立てることができない。さらに、原因者責任を追及する観点からは、汚染に対する寄与の度合いを推計することも重要になる。柏木さんは「環境汚染に対する未確認発生源の寄与率の推定」(2006年発表の論文タイトル)という未踏の分野に挑戦することになった。

 毒性がきわめて高いといわれるダイオキシン汚染が研究対象となった。東京湾の住宅密集地域に近い港で、底質から高濃度のダイオキシンが見つかり、汚染の規模は国内最大級と推定された。港の奥から中央部にかけて濃度が高く、港内に流入する河川では桁違いに低かった。このことから発生源は港周辺に存在すると推察された。

 港内の環境を修復するためには早急に対策を確定する必要がある。その際、発生源の特定と修復の費用負担をどのように設定するかが現実的な問題となった。ある製造工場が主原因であると推定できたが、費用負担の割合をいかにすべきかで行政当局は「寄与率」解明という壁にぶつかったという。

 柏木さんは「識別不能な未知変数の実用的な推定値を得る」という手法の提案を行った。環境における汚染物質の組成は、各発生源から到達した汚染物質の組成の混合和に等しいというが、発生源組成を正確に特定するのは困難である。多くの場合、未知の発生源が存在する可能性さえ残る。未知発生源の存在を仮定すると、推定は一般に不定になるが、開発したベイズ的方法を用いると、実用的な推定値を得られた。現実社会の悩みへの対処に統計的手法が光明をもたらした一瞬ともいえる。

共同研究手法を大切に新分野に取り組む

 これらの現実的な成果に対して、柏木さんは「研究の最終目的ではなく、統計学的なデータ解析の手法を極めるための通過点。副産物といえるようなもの」と謙虚に言う。

 「現場に行かなければ、深刻な問題の解決にはつながらない。そして、現象追及のために使う手段として共同研究が大切です。」それは統数研が「共同利用できる知恵」を作り続け、社会に役立つことにもつながる。

 「共同利用の形をとる以上、相手の人が成果を上げるようにしなくては」と何度も強調した。統計学の手法の新しさへの自信と現実問題に対する執着、そして何よりも共同の一部分として自己を規定する姿勢が柏木さんの統計学を特徴づける。

 最近の新しい仕事として、野菜に含まれる農薬を低減させる技術の開発や、降雨のリモートセンシング(遠隔測定)の精度向上、あるいは生物種の環境物質に対する感受性の推定に取り組む。確率分布の考え方が基本となって解明される課題だ。「本来の数理研究のための時間が減ってしまう。特定の現象に固執して何の研究者だか分からなくなるのは避けたいのだが…」と言いながらも、新たな力の発揮への期待を意識する。

(企画/広報室)

図1.東京湾の青潮被害=千葉県環境研究センター提供


図2.東京湾における水質測定点


図3.環境汚染問題で使用する物質収支方程式(未知発生源の存在を仮定すると、推定は一般に不定になるが、開発したベイズ的方法を用いると、実用的な推定値を得られるようになる。)

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