研究室訪問

金融機関のリスク管理手法と統計的リスク監査の開発

 2008年秋、米国発の大不況が世界を襲った。外需の減速が日本経済にとって大きな痛手であり、円高も影響して企業の収益環境の悪化が懸念される。雇用と所得への不安が広がる……。

 しかし、統数研新館3階の研究室から日本経済を俯瞰する山下さんは「他の先進国に比べれば傷が浅い。倒産も落ち着き、日本経済は持ち直す方向に舵を取る」と話す。その大きな理由は、日本の金融機関のリスク管理が向上しているからだ。「悲観せずに前を向いて働こう」統計学の立場から発せられるエールは人々にとって大きな励ましだ。

信用リスクの計量化研究の重要性

 不良債権、過剰融資、経営破綻……。激動する経済情勢の下、金融に関連する衝撃的な言葉が毎日のようにニュースとして躍る。国民が安定した気持で経済社会に対処できるようするために、統計学はどのように寄与するのだろうか。

顔写真

山下 智志
データ科学研究系
多次元データ解析グループ准教授

 山下さんは、融資や社債によって資金を調達している企業が倒産する確率や、倒産した時にどの程度まで貸出金を回収できるかについて、合理的な算出方法を研究テーマに掲げている。「金融機関の投資戦略においては特にリスク管理が重要だ」と指摘する。とりわけ信用リスクをどのように計測するかがポイントとなる。国債、社債などの債権や貸付、ローンなどの債権が債権者の都合によってデフォルト(債権不履行)となるリスクをどのように回避するか。

 山下さんは、デフォルト確率や回収率を推計する数理モデルの開発の分野で新たな手法への提案を行っている。「現在、信用リスク計量化をさらに精緻化することが時代の要請です。デフォルト確率以外のリスクについても推計することが求められています。」

実社会が直面する困難をどうやって処理するかで頭はいっぱい

パラメータを総合化した推計法を提案

 デフォルトの回避に向けては、対象企業の財務データや格付情報、債権回収率などの多方面の情報を参照したい。しかし、これまでのパラメータ推計は各情報を分断して個別に推計して来たために効果的に活用できない欠点があった。

 そこで、山下さんは諸情報を統合することに数理的な工夫を凝らすことにした。社債発行企業の特徴を考慮した倒産確率の期間構造と、格付けごとの回収率を同時推定する統計的モデリング手法を新たに提案することに漕ぎ着いた。

 それは今、金融機関の投資戦略にも少なからぬ影響を及ぼしている。研究室での山下さんは多くの銀行のリスク管理担当者から質問を受け、説明にあたることが多い。その際、さりげなく言うことにしている。「新BIS以来、多くの信用リスク計測モデルが提案されてきた。それぞれのモデルの優劣を測る基準が必要となってきたのではいないか」と。

 BISとは国際決済銀行(Bank of International Settlements)の略だが、経済をめぐる会話の中では金融機関に対する国際的な自己資本比率規制の意味で使われることが多い。1988年に銀行の健全性を確保するため、国際業務を営む銀行には8%、国内業務の場合は4%の自己資本比率の規制を定めた。日本では3年間の移行期間ののち実施された。

 94年に統数研入りした山下さんは金融庁の特別研究員を兼務し、日本にBIS規制改訂を定着させる諸政策の最先端に関わってきた。「多国間条約の締結には、理論と実務の摺り合わせや各国間の利害調整、条文化などに多大な時間と労力が必要だ」と国際交渉の行方を見守ってきた経験を語る。

 2006年のBIS規制改訂に際しては新規制の内容を議論するバーゼル委員会の委員を務め、行政が発する指針に信用リスクのモデル予測の統計学的な裏付けを与えるという大きな役割を担った。新BIS規制は条約なのでそれだけでは国内における強制力はない。そのため条約を国内の法体系に落とし込む段階が必要である。

 「銀行というものは自由にさせておけば、大きな融資で実績を上げようとする体質を持っている。しかし、身の丈にあった健全な経営を目指すための規制を導入、順守させることが、社会全体に安心感をもたらせる」と、山下さんは新BIS規制の意義を簡潔に説明してくれた。

 不況に直面する私たちが、悲観的な予想を回避できる大きな理由もここにある、というのが山下さんの見解だ。銀行を主力とする金融機関が不況の影響を最小限に受け止めるだけの体制を整えている。それは1990年代からBISを順守するなどの経営改革を進めた成果のあらわれとも言える。

現実から目をそらさない研究姿勢

 将来はどのような研究を行いたいか?「自分が何をやりたいかなんて考えるヒマはない。実社会が直面する困難をどうやって処理するかで頭はいっぱい」さらに「公器としての統計数理研究者の役割のひとつは、臨床医のようなものであり、目の前の病気の人を次々に治療する役割を与えられている」と語る。

 緑豊かな有栖川公園に面した研究室。ひっきりなしに電話がかかるので、インタビューは別の部屋に移動して行った。青嵐の中で開いた書物の扉にも「BIS」の文字が躍っている。現実から離れることを自分に許さない研究者の多忙な日々が続く。

(企画/広報室)

図1.BIS規制の見直し作業は1998年から約10年かけて実用化された。


図2.金融庁告示第19号は新BIS規制の日本版で、金融監督はこの告示文を根拠に行われる。


図3.民間企業が作成した信用リスクモデルは当局によって監督・検査を受けることが義務づけられている。

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