第71巻第2号101−117(2023)  特集「諸科学における統計数理モデリングの拡がりⅡ」  [研究ノート]

行動意思決定研究者の読んだ『確率の出現』とその示唆

東京都市大学 広田 すみれ

要旨

本稿は科学哲学書であるイアン・ハッキング『確率の出現 第2版』(Hacking,2006)の簡単な紹介である.同書は世界中で話題を呼び,現在でも引用される書籍である.同書では確率の出現について,パスカル以前に注目し,ルネサンス時代において“probability”という語は「是認に値するもの」という意味を持ち,またそれが臆見に属するものであることを示し,その後証拠の概念が変化し内的証拠が現れたことが出現の背景にあることを述べた.そしてその前史から確率は出現の時期から認識論的側面と偶然的側面の二元性があったことを主張した.また確率が明示的に記載されたのは『ポールロワイヤル論理学』の追加された最後の数章であることを示した.さらにホイヘンス,パスカル,ライプニッツ,J.ヒュッデ,グラント,J.ベルヌーイといった人物を確率解釈と帰納推論の観点から論じた.本稿では同書について,パスカル以前の特徴的な部分についてやや詳細に記載し,以降を章ごとに順に紹介した.最後にリスク研究に関して本書の主張が意味することを考察した.

キーワード:認識論的確率,偶然的確率,二元性,パスカル以前,帰納推論,蓋然性.


第71巻第2号119−128(2023)  特集「諸科学における統計数理モデリングの拡がりⅡ」  [研究ノート]

生態学におけるモデルと法則に関する科学哲学論考の意義

統計数理研究所 島谷 健一郎

要旨

生態学における科学哲学的問題を提起した論文で,科学哲学誌上で繰り返し議論された2つについて,主な論点と哲学論争の経緯を振り返り,現在の統計モデルを活用する生態研究における科学方法論的指針の布石を打つ.「集団生物学におけるモデル構築法」と題する論文では,集団生物モデルにおける一般性・現実性・正確性の間のトレードオフが主張された.用語の定義に曖昧さを含み命題として証明されてないなどの哲学批判を受けたが,そもそも論文の目的は集団生物モデリングの実践論だった.「生物群集に一般法則はあるか?」と題する論文は,そもそも生態学における法則とは何かという論争を招いた.いずれの論文についても,哲学誌上での議論は,一般性や法則などの言葉の定義に割かれがちだった.また,最近公表された科学哲学論文においても,情報量規準やベイズ統計などを駆使する生態研究に関する言及はほとんどない.それでも,何でも込みの複雑モデルと理想化された単純モデルのどちらが適切かのような,データの質・量や計算機の発展を経ても変わらない論点もあり,科学哲学的論考は,議論による成熟を経て研究現場へ恩恵をもたらしていると考えられる.

キーワード:生態学,一般性,法則,科学哲学,モデリング.


第71巻第2号129−148(2023)  特集「諸科学における統計数理モデリングの拡がりⅡ」  [研究ノート]

果樹豊凶の決定論的非線形予測
—アンサンブル再構成とLorenz類推法による1年先収量予測—

東京農工大学 酒井 憲司

要旨

決定論的カオスは軌道不安定性を有する低次元のダイナミクスから生成される.観測時系列からカオス性を判別することが非線形時系列解析(カオス時系列解析)の第1の目的である.その中でも,決定論的非線形予測はよく利用される手法の一つであるが,大きな時系列サイズが必要である.一方,作物の収量は年に1回しか計測できないため,取得できる収量時系列の大きさは非常に小さい.その反面,圃場や果樹園の作物個体数は大きいため,時系列集合のサイズは大きくなる.また,多くの果樹の繁殖様式が低次元の非線形ダイナミクスを有していると仮定できる.本稿では,果樹園から得られた収量時系列集合に対して行ったダイナミクスのアンサンブル再構成,決定論的非線形予測そして収量の1年先予測の実践例をウンシュウミカンとピスタチオについて紹介する.

キーワード:カオス同期,カオス集団力学,決定論的非線形予測,隔年結果,アンサンブル再構成,共通ノイズ同期.


第71巻第2号149−158(2023)  特集「諸科学における統計数理モデリングの拡がりⅡ」  [原著論文]

力学系を組み込んだ変分自己符号化器による顕微鏡動画モデリング:ゼニゴケ精子の運動を例として

自然科学研究機構/総合研究大学院大学 近藤 洋平
基礎生物学研究所 南野 尚紀
総合研究大学院大学/基礎生物学研究所 上田 貴志

要旨

顕微鏡による観察は,フックによって細胞が発見された17世紀から現代に至るまで,生物学において最も重要な研究方法の一つである.また近年では,光学技術と蛍光タンパク質を用いたツールの発展によって,多くの現象がこれまでになく高い時空間分解能で観測可能になっている.しかし,生み出される顕微鏡動画データは複雑かつ高次元であり,そこから生物学的に興味のあるパラメータを抽出することは必ずしも容易ではない.この問題に対し我々は,教師なし特徴抽出のための変分自己符号化器に力学系を組み込んで顕微鏡動画をモデリングすることで,力学系の状態変数およびパラメータの形で観察対象の生物を特徴づける情報を得る枠組みを提案する.本稿では,植物学において重要な地位を獲得しつつあるモデル生物であるゼニゴケ(Marchantia polymorpha)の精子運動様式を対象に,提案する枠組みの有用性を検証した.力学系として位相振動子を用いることで,精子の回転運動の位相とその速度を,暗視野顕微鏡による高速イメージングデータから抽出することができた.

キーワード:力学系,変分自己符号化器,画像解析,植物学,ゼニゴケ.


第71巻第2号159−187(2023)  特集「諸科学における統計数理モデリングの拡がりⅡ」  [原著論文]

位相的データ解析による銀河分布の定量化とバリオン音響振動抽出

名古屋大学/統計数理研究所 竹内 努
名古屋大学 河野 海
名古屋大学/国立天文台/日本学術振興会特別研究員(PD) クレ スチェータ
岐阜聖徳学園大/名古屋大学 西澤 淳
名古屋大学 村上 広耶
名古屋大学 馬 海霞
統計数理研究所(現 一橋大学) 本武 陽一

要旨

宇宙空間において,銀河は銀河団,銀河群,フィラメント(1次元的な銀河の連なり),ヴォイド(銀河の存在しない領域)といった構造を形作り不均一に分布している.これを宇宙の大規模構造と呼ぶ.宇宙論では通常の物質をバリオンと呼び,我々が直接観測するのはこのバリオンが形作る大規模構造である.
大規模構造を形成する主要因は重力不安定だが,これとは別種の構造の源となる機構が存在する.これがバリオン‐光子脱結合の時期に生じるバリオンの音波である.これはバリオン音響振動(BAO)として知られ,銀河の空間分布に刻印されている.本研究では,銀河分布のBAO信号を検証するために,位相的データ解析(topological data analysis: TDA)の方法で銀河の空間分布を解析した.TDAでは,点群データを「穴」の集合として解釈し,その幾何学的構造からパーシステントホモロジー群を構成することで,1つ1つの穴構造の特徴を抽出する手法である.従って,それぞれの穴の情報を保持するパーシステントホモロジー群と穴の位置情報などを組み合わせることで,TDAによって点群データから定義される穴集合のそれぞれの穴のサイズ,位置などの特徴が定量評価できる.
我々はまず,バリオンの物理あり,なしの場合のシミュレーションデータセットを解析し,TDAのパフォーマンスを調べた.この結果,TDAは,宇宙の大規模構造の中からBAO信号を実際に検出できることがわかった.バリオンありのシミュレーションはBAOからの有意な信号を示したのに対し,バリオンなしデータはこの信号が検出されなかった.この結果をもとに,次にスローンデジタルスカイサーベイデータリリース14(SDSS DR14)のeBOSS(extended Baryon Oscillation Spectroscopic Survey)からz < 1.0のクエーサー(活動銀河核の一種)を抽出してサンプルを構成し,TDAを適用した.この解析で,我々はr ~150 [Mpc]のスケールで特徴的な穴(中空のシェル)を発見した.これは,銀河/クエーサー分布に刻印されたBAOの信号に正確に対応している.この解析は2000個のクエーサーからなるサブサンプルで実行した.これはTDAが,たとえ非常に疎なサンプリングであっても中空の穴のような位相的構造を検出するのに有効であることを示している.

キーワード:位相的データ解析,パーシステントホモロジー,銀河分布,宇宙の大規模構造,バリオン音響振動.