「マルチンゲール理論による統計解析」 西山陽一・著
近代科学社 ISMシリーズ:進化する統計数理1
2011年10月発刊,発売中!



まえがき

マルチンゲール理論は,計量経済や臨床統計において実用化されているさまざまな手法の基礎を与える数学的理論である.本書は,そのような現場に立たれている方々に,同理論にもとづく統計解析を,厳密さを損なうことなくなるべく平易に解説することを目的としている.また,これから数理統計学の研究者を目指す学部上級~大学院生の諸君や,まだ同理論に精通していない研究者の方々が,本格的研究を始めるにあたっての基礎作りをするためのお役に立つことを願っている.

本書の目標は二つある.一つ目は,マルチンゲール理論のうち統計学の研究のために必要な部分のわかりやすいサーベイを与えることである.マルチンゲール理論を扱った良書は確率論のほうで既にたくさん刊行されている.そして同理論が統計学にも強力な武器として働くことは,1980年前後から明らかにされている.ところが,例えば統計的漸近理論を展開するにあたって必須アイテムとなるマルチンゲール中心極限定理の証明を紹介している和書は,著者の知る限り存在しない.洋書まで見わたした場合,学術論文でしばしば引用される Jacod and Shiryaev (1987, 2003) があるが,それは非常に大部であり,初学者が容易に取り組めるものではない.著者は従来よりマルチンゲール中心極限定理(のうち統計学の研究に必要なヴァージョン)をなるべく自己完結的に証明したコンパクトな和書があれば,どれほど我が国において確率過程の統計学に興味をもたれている方々の助けになることかと考えてきた.

そこで本書は,条件付き期待値の初学者向けの直観的解説から始め,マルチンゲール理論(任意抽出定理の使用上の注意,確率積分の易しい説明,伊藤の公式とは何であるか,中心極限定理の証明)をユーザーの立場からまとめ,さらに確率場の一様収束や拡散過程の高頻度データ解析のためのテクニックなどもひととおりカバーすることで,統計的漸近理論の研究のための総合的かつコンパクトなテキストを目指した.第 3 章,第 5 ~ 8 章がそれに当てられる.

目標の二つ目は,統計的漸近理論のうち,特に Z-推定量の一致性および漸近正規性の明快な解説を与えることである.Z-推定量とは,最尤推定量をはじめとした推定方程式の解として与えられる推定量のことである.最尤推定量が統計学において最も基本的な推定量であることは論を待たないと思われるが,その漸近正規性の証明は著者の場合,修士1年の頃にやっと i.i.d. モデルで勉強したという始末であった.

そこで本書は,学部上級~修士レベルの読者が Z-推定量の漸近正規性の証明を統一的視点から理解し,さまざまな統計モデル(特に確率過程モデル)で体験していただくことを願って執筆した.第 4 章と第 9 章がそれに当てられる.第 4 章は確率過程モデルにおける未知パラメータの漸近正規性の証明の概略を何の準備もなしに把握していただくことを目指して書き下ろしたものであり,著者としてはこの章だけでもお読みいただく価値があると考えている.第 9 章では,厳密な理論を自己完結的に展開する.なお,本書では主に Z-推定量しか解説しないが,マルチンゲール理論は他の統計的手法にも有効であるので,それらを例えば吉田 (2006) の教科書で学習して,そこに書いてあることの確率過程版を研究してみてほしい.この分野はまだまだ魅力的な未解決問題がたくさんある.

本書は,著者が北里大学薬学部,大阪府立大学総合科学部,東京大学経済学部において行った(短期集中の)講義ノートを出発点とし,統計数理研究所における公開講座「マルチンゲール理論による統計解析の基礎」の講座資料に大幅な加筆をしたものである.過去数度にわたる後者の講座は,吉田朋広教授(東京大学),内田雅之教授(大阪大学),増田弘毅博士(九州大学)を共同講師としてお迎えして実施した.この場を借りて,これらの先生方の講座へのご協力と,講座資料の一部を使用させていただいたことに深く感謝したい.また本書の原稿をお読みくださり,数多くの有益なご意見をいただいた浦田正夫博士(医薬品医療機器総合機構)ならびに高木義治氏(サノフィ・アベンティス株式会社)にも感謝したい.庄建倉博士(統計数理研究所)と藤井孝之博士(大阪大学)には図の作成にご助力いただいた.また,北川源四郎名誉教授(前・統計数理研究所長),樋口知之教授(統計数理研究所長),中野純司教授(統計数理研究所・統計科学技術センター長)からは,本書をより読みやすく魅力的なものにするための貴重なご指導を賜った.近代科学社の小山透氏からは,出版のプロの立場から数多くのアドバイスを頂戴した.

最後に,私事になるが,著者は大阪大学大学院時代において稲垣宣生先生(現・大阪大学名誉教授),オランダ・ユトレヒト大学留学時代において Richard D. Gill 先生(現・ライデン大学教授)のご指導を賜る幸運を得た.本書において,稲垣先生の偉大な業績のひとつである畳み込み定理(9.9 節)および Gill 先生が統計学の世界的リーダーの地位を確立するに至った Cox 回帰モデルの研究(9.5 節)の紹介をすることができたのは,弟子としての大きな喜びである.もし両先生が本書をお気に召してくだされば望外の幸せである.

2011年 9月,立川にて  西山陽一



目次

1 読者へのメッセージ
 1.1 想定する読者像
 1.2 本書の構成
 1.3 なぜマルチンゲール理論は有用なのか
  1.3.1 時系列解析をよりリアリスティックにするためのマルチンゲール
  1.3.2 センサーを受けたデータを正しく扱うためのマルチンゲール

2 半マルチンゲールによる統計的モデリングへのいざない
 2.1 線形回帰モデルから拡散過程モデルへ
 2.2 半マルチンゲールとしての Cox 回帰モデル

3 読みはじめるにあたって
 3.1 測度論を少し勉強したことのある方への注意
  3.1.1 悩ましい「a.s.」に関するFAQ
  3.1.2 ビギナーが犯しがちなミス
 3.2 条件付き期待値
  3.2.1 条件付き期待値の定義と直観的説明
  3.2.2 条件付き期待値の性質
 3.3 確率的収束の諸概念

4 「確率過程の統計解析」への最短入門
 4.1 「計数過程の統計解析」への最短入門
  4.1.1 強度の導入まで
  4.1.2 二次変分と確率積分
  4.1.3 マルチンゲール中心極限定理
  4.1.4 最尤推定量の漸近正規性
 4.2 「拡散過程の統計解析」への最短入門
  4.2.1 伊藤積分およびマルチンゲール中心極限定理
  4.2.2 最尤推定量の漸近正規性
 4.3 アプローチのまとめ
 4.4 例
  4.4.1 計数過程モデルの例
  4.4.2 拡散過程モデルの例

5 離散時間マルチンゲールのエッセンス
 5.1 マルチンゲールの定義と確率積分の原型
 5.2 停止時刻と任意抽出定理
 5.3 Lenglart の不等式
 5.4 離散時間マルチンゲールに対する中心極限定理

6 連続時間マルチンゲール
 6.1 確率基,適合過程,マルチンゲール
 6.2 停止時刻
 6.3 ψ(M) は劣マルチンゲール
 6.4 予測可能性と有界変動性
  6.4.1 予測可能性
  6.4.2 有界変動性
 6.5 マルチンゲールの可積分性と任意抽出定理
 6.6 ドゥーブの不等式とドゥーブ-メイエー分解定理
  6.6.1 ドゥーブの不等式
  6.2.2 ドゥーブ-メイエー分解定理
 6.7 二次変分
 6.8 確率積分
  6.8.1 初等確率過程に対する確率積分の定義
  6.8.2 確率積分の性質
  6.8.3 確率積分の構成(少し詳しく)
 6.9 半マルチンゲールの定義と例
 6.10 連続半マルチンゲールに対する伊藤の公式
 6.11 局所マルチンゲールの分解
 6.12 一般の半マルチンゲールに対する伊藤の公式

7 尤度の公式
 7.1 拡散過程の尤度の公式
  7.1.1 確率微分方程式の解の存在と一意性
  7.1.2 Girsanov の定理
 7.2 計数過程の尤度の公式

8 漸近理論のためのツール
 8.1 Lenglart の不等式
 8.2 連続マルチンゲールに対する中心極限定理
 8.3 計数過程のマルチンゲール中心極限定理
 8.4 エルゴード的確率場の一様大数の法則
 8.5 確率場の一様収束
 8.6 確率場の弱収束
  8.6.1 準備
  8.6.2 漸近的同程度連続性条件
  8.6.3 可分な確率場の弱収束
  8.6.4 マルチンゲール確率場の弱収束
 8.7 Burkholder-Davis-Gundy の不等式
 8.8 拡散過程の離散観測問題のためのツール

9 確率過程の統計解析
 9.1 i.i.d. モデルの最尤推定量(直観的説明)
 9.2 Z-推定量の一般論
  9.2.1 一致性
  9.2.2 漸近分布
 9.3 i.i.d. モデルの最尤推定量(厳密な証明)
 9.4 積強度モデル
  9.4.1 モデルの説明
  9.4.2 パラメトリック推定問題
 9.5 Cox 回帰モデル
 9.6 拡散過程のドリフト係数の最尤推定(連続観測)
 9.7 拡散過程のドリフト係数の推定(離散観測)
 9.8 拡散過程の拡散係数の推定
 9.9 局所漸近正規性に基づく漸近有効性の議論
 9.10 ベイズ推定量
  9.10.1 一般論
  9.10.2 各モデルへの適用

A 付録
 A.1 Gronwall の不等式
 A.2 さらに勉強・研究したい方のために
  A.2.1 教科書の紹介
  A.2.2 我が国の研究者の活躍

B 問への解答・ヒント

索引