はじめに

この本は,まず第一に,「統計物理と統計的な情報処理が似ている」 ということを書いた本である.これは,大雑把にいえば,原子や何かがお互いに 複雑に絡み合って揺らいでいる様子と,私達がものを考えるときに,ああでも ない,こうでもないと考える様子が似ている,というようなことである.

こうしたことは,ニューラルネットや組み合わせ最適化の研究 の中で論じられてきたし,精神としてはおそらく「サイバネティクス」の黎明時代, あるいは,それ以前にまで遡る.しかし,この見方が,本当の意味で 広く活用されるようになったのは1990年代からである. 新しい時代に特に強調されるようになった点としては, 「確率によって不確かさを表わすことの重要性」,「動的モンテカルロ法の分野を 超えた有効性」などがある.物理の側からいえば,いわゆる「平衡統計物理」(及び それを実現するダイナミクス)とのアナロジーに焦点が絞られた代わり, 具体的・実用的な情報処理の世界で不可欠の要素として 認められるようになったのである.

この本では,統計学や統計物理の知識を前提とせずに, やさしい数式だけを使って,これらのことを説明した. 「統計物理と統計的な情報処理が似ている」ということ を書いた本は既にいくつか存在するが,この本の特徴は, 数式は思い切り初等的にして,イメージと思想を伝えることに 重点を置いたことである.イメージをより明確にするために, 説明のための例のそれぞれ,たとえば,遺伝子伝播の解析や 「氷」の不思議な性質についても,気持ちを込めて説明した. これらの例を楽しんで頂くのもこの本のひとつの読み方である.

強調したい点は,この本の対象は「脳」や「神経細胞」ではない ということである.ここでは,もっと抽象的なレベルで「考える」とか 「推理する」ということと,物理とのアナロジーを考える. また,雰囲気的に「似ている」というだけで終わるのではなく, 従来から情報の分野で使われてきた確率に基づいた定式化との対応を 考え,そこから生まれた新しい技法について説明する.そこで鍵となるのが, 「考えることについての学問」としての「統計学」の見直しである.

この本は,統計学への少し変わった入門として読むこともできる. 統計学というと,「過去の遺産」とか「決まりきった手法を学ぶ分野」 というような見方をされることが多く,現在も発展しつつある学問で あるということはあまり知られていないようである. しかし,実は,統計学は,これからの情報を扱う科学の本命, 核となりうる部分なのである. この本では,伝統的なやり方にとらわれずに, 統計学の考え方を紹介するとともに, 物理学との基本的な違いについても議論した.さきほど, 「物理と似ている」と書いたばかりであるが,似ている面は似ているが, 違う面は全然違うのである.読者が,まず似ていることに驚き,次に違う面に 触れて考え込んでくれれば,著者の意図は達成されたといえる. 統計学の示唆する情報の世界の深みについては, まだ論じるべきことがあるが,それは次の機会に 譲ることとしたい.

予定では,タイトルは「統計物理とベイズ統計」(あるいは 「統計物理とベイズ統計学」)となるはずであったが,上に書いたことや 実際の内容の重点を考えて,順番をひっくりかえして「ベイズ統計 と統計物理」とすることにした.これは,その昔,1980年代の 終わりに,この本の主題に関係したテーマで,最初に,物理学会と 国際会議(YKIS'88)のポスターで発表した際のタイトルであり, 著者にとっては思い出深いものである. 予定 したタイトルで引用して下さった方と食い違ってしまったことを,刊行の遅れ とあわせてお詫びする.

巻末の文献紹介で断片的に述べたように, この本の内容は著者の人生の軌跡に深く関わるものであるが, それは,とりあげた例が著者の研究成果だという意味では必ずしもない. むしろ,著者が考えてきたことや面白いと感じたことを,さまざまな分野の さまざまな結果を自由に使って表現したものだと考えていただきたい. 論文や文系の学術書とは性格が異なるので,とくに歴史的な意義のある ものを除いて,原論文をいちいち参照することはしていないが, 関連分野の発展に寄与された方々にはあらためて感謝の意を表わしたい.

出てくる数式や言葉の難易度で比べれば, このレベルの内容で,これよりやさしく書かれた本はあまりないと思う. 反面,この分野の勉強をある程度された方が読めば,また違って 感じられるかもしれない. 著者は,はじめて学ばれる方にとっては,初夏の午後の街路の ように平穏に歩け,専門家にとっては,足下の影に目を落とせば 忽ち迷宮に迷うような本が書きたかった. もし,初心者 がはじめの方で転んでしまったり,専門家を取り逃がす ような事があれば,それは著者の非力の故である.

それでは,私の頭の中へ,どうぞ.





伊庭幸人 2003年 7月