研究室訪問

統計科学を通じた諸科学の対話を目指して

 2010年12月、日曜日の統数研。真冬の澄んだ空気の彼方に奥多摩と秩父の峰々が連なって見える。6階建の統数研のビル全体を、大量の氷をかかえ込んだような静けさが覆っていた。人気のない玄関から入り、3階セミナー室に集まる人々の姿があった。

 研究会の開催の呼びかけ人は伊庭幸人さん。テーマは「神経科学と統計科学の対話」。若手の研究者や大学院生を中心とする約50人が参加した。

 「非定常スパイク時系列の構造分析」、「マルコフランダムフィールドモデルによる神経パルスとEEG解析」など、難解な専門用語の発表題目が並んでいる。しかし、オープニングに挨拶した伊庭さんは「統計数理のマニアックな話が目的ではなく、神経科学や脳科学の問題意識に対してどのように統計手法を使うかに焦点を当てたい」と述べた。「懇親会が大事。手を抜くなと言われています」とも。休日のセミナー室に若者たちの笑い声が渦巻いた。

顔写真

伊庭 幸人
新機軸創発センター
モンテカルロ計算研究グループ准教授

マルコフ連鎖モンテカルロ法の研究

 伊庭さんは20代の後半に助手として採用、現在まで一貫して統数研に勤務する。「いつの間にか在職期間の長い生え抜き研究者の一人となりました」。修士論文は氷の誘導率に関する研究に関するものだったが、2000年に取得した理学博士の論文タイトルには「ベイズ統計学」と「モンテカルロ法」の文字が躍った。統計物理学と統計科学を行き来しながら、モデリングの研究を続ける。

 ホームページに掲載する「研究テーマ」は5つの主題が並ぶほど多彩だ。専門誌などの自己紹介欄では「マルコフ連鎖モンテカルロ法(特に拡張アンサンブル法)の方法論と応用の研究が本職」と書く。

 マルコフ連鎖カンテカルロ法(MCMC)とはいかなるものなのだろうか。「マルコフ」は人名。「モンテカルロ」は地名。伊庭研究室の前に張り出されたポスターには次のように書かれていた。

 モンテカルロ法とは「乱数」を用いてさまざまな量を計算する手法の総称。計算機のなかで擬似的な「サイコロ」を投げることで複雑な計算を行うことができる。「なかでも統計物理に起源を持つMCMCは高次元の確率分布を扱うための汎用的で強力な道具を与えます」と伊庭さんは語る。

科学全般、とくに異なる分野の間の関係と背後にある思想の違いに興味をもってきた

新しい方法論の確立を目指して

 「以前は物理ですでに用いられている手法を統計に使うことを考えていたが、方法論自体の研究にも力を入れるようになった。その中でも割合うまくいったのは、格子ポリマー・格子たんぱく模型のためのモンテカルロ法の開発です」。タンパク質は生物の体を作っている一番基本的な材料だ。大事な働きをするヘモグロビンや酵素は、基本的には20種類ほどのアミノ酸がつながった1次元的な鎖を構成する。それが複雑な形に折りたたまれて様々な機能を発揮するが、その秘密を理解するためのモデルである「格子たんぱく模型」のための計算手法の開発が、伊庭さんの研究テーマとなった。

 「強力な道具」としてのモンテカルロ法は、そのほかに脳科学のニューロンの実験データからベイズモデルとMCMCを用いて「位相応答曲線」なるものを推定したり、「珍しい事象のサンプリング」への応用では、与えられた確率モデルのもとで、めったに起きない事象(レア・イベント)の確率を少ないサンプリングから求めることもできる。

 「まとめると、従来は全部数え上げたり、問題特有の性質を使ってパズル的に解いていた問題を、サイコロを振る方法で解いて成果を上げたということかな」と楽しそうに話す。

統計科学シリーズ本の編集にも情熱

 統計科学を志す若者向けに書いた「ブックレビュー」の一文には、統数研の伝説的な研究者・赤池弘次元所長(2009年8月没)への敬愛がにじみ出ていた。

 「筆者が最初に意識して読んだ統計科学の書物のひとつが『情報量統計学』(共立出版)である。この本は、AIC(赤池情報量規準)というひとつの量をものさしとして、考えられるあらゆるモデルを並べあげて最良のモデルを選ぶ、という一貫した思想のもとに書かれており、理論物理を学んだ筆者の統計学のイメージを一新させることになった」。

 「大学院生のころから、科学全般、とくに異なる分野の間の関係と背後にある思想の違いに興味をもってきた」と語る。最近刊行された<統計学のフロンティア>シリーズ(全12巻)の編集委員を務めたのも、その延長線上の試みといえる。冒頭の「神経科学と統計科学の対話」もまたそうした活動の一環である。「統計、というと実学というイメージがあるのはいいとして、身近すぎて、もう終わった学問とか、先端的な学問ではないと思われるのは困る」とも話す。

 趣味は「仕事に関係がない数学の本を読むことと、アニメのDVDを大きく映して鑑賞すること」。最近ハイキングにも親しみ、森の中を歩く面白さに目覚めたという。大岳、御岳、雲取…。いつも立川から見える山々の姿を楽しみながら、統計数理の新たな可能性を追いかけている。

(企画/広報室)

図2.計算機の中で乱数を使って「サイコロを投げる」ことで計算を行う技法をモンテカルロ法と呼ぶ。


図1.マルコフ連鎖モンテカルロ法の概念図。サイコロを投げた結果によって状態を変化させながら、一定の間隔でサンプルを取り出す。楕円は前の赤丸の状態で条件付けられた分布をあらわしている。


図3.格子タンパク模型。さまざまな「折り曲げ方」に確率が割り振られる。濃い色の球同士が接する数が多いほどエネルギーが小さく、低温での出現確率が大きくなる。開発した方法で得られた最小エネルギーに近い状態が示されている。[Chikenji, G., Kikuchi, M. and Iba, Y., Physical Review Letters, 83, 1886-1889(1999), Fig.3]

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