研究紹介

ゲノム時代の分子系統樹推定と分子進化の解明

 地球上の生物が、ある共通の祖先から進化によって種分化して現在の多様性を獲得したのなら、それを「系統樹」として表現できるはずである。ダーウィン以降の生物学者はそう考え、生物の形態情報から生物群を分類して系統樹を描き始めた。そして、生物の遺伝情報の実態であるDNA 分子が発見されると、その情報を基にして「分子系統樹」の推定が行われるようになった。遺伝情報の違いはランダムな突然変異の蓄積に由来するので、分子の配列の変化を確率モデルで表現できる。そこでDNA の塩基配列やタンパクのアミノ酸配列の置換をマルコフモデルとして記述し、最尤法により分子系統樹を推定する方法が主流となった。

 分子系統樹を推定するためには、二つの点で適切な遺伝情報を持つ分子(データ)を選択する必要がある。第一に、同じ共通祖先から由来した相同な分子であり、その分子の系統が種の系統と一致しなければならない。多重遺伝子族などゲノム上で重複が起きた遺伝子は、相同な遺伝子の選択が難しいので避けられてきた。第二は、点突然変異に由来する遺伝情報の変化が適度に蓄積している分子を選ぶことである。変異が少なすぎると系統関係を示す情報量が少なく、逆に変異が多すぎると情報は様々なゆらぎやノイズに埋もれてしまう。これまでの分子系統樹の推定では情報量を増やすために比較する遺伝子の数を増やし、また、ゆらぎやノイズに埋もれた情報を引き出すために、置換モデルを現実の進化(点突然変異の蓄積)に近づけるように改良を重ねてきた。

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足立 淳
予測発見戦略研究センター

 ヒトゲノムの配列データが発表されて以来、様々な種のゲノムが公表され、分子系統学は新たな局面を迎える。これまで、試行錯誤を繰り返しながら積み重ねた経験に基づいて選択してきたデータを、多種のゲノム情報を比較することにより客観的で網羅的な選択を行うことが可能となった。これまでデータが少なかったために難しかった問題を解決できるかも知れないのである。ただし、ゲノムデータは完全なものではないということに注意しなければならない。ゲノムの多くは効率を重視したショットガン法により配列が決定されてきた。この方法は大量の断片からアセンブルによってゲノムを復元しなければならない。だが、プロジェクトによっては、その終了時に予算の関係で質よりも量を追うことになり、配列の精度が落ちたりアセンブルが不完全な部分を残していることがある。特に重複によって同じような配列が散在する場合、アセンブルミスを誘発する。多重遺伝子族などの解析では、ゲノム配列の不完全さを考慮したデータの選択が必要である。さらに、ゲノム上の個々の遺伝子は互いに独立に進化してきたので、解析でも独立なモデルを仮定しなければならない。これまでの最尤法は、少数の遺伝子データを対象にしていたので、現在、大規模なデータを扱える新たな方法やアルゴリズムを開発し、ソフトウエアを整備しているところである。

 ゲノム情報の急速な蓄積により、さまざまな生物間でゲノム全体の比較ができるようになった意義は大きい。遺伝情報全体を扱えるようになったということは、情報が単に量的に増えたということではなく、質的にも全く新しい基盤の上に立った議論が可能になったということを意味する。これまでの分子系統学は、生命の種分化の歴史の流れを知ることができたが、どのように進化してきたかというメカニズムの解明には力不足であった。だが、遺伝情報全体を比較することにより、ゲノム構造の進化の歴史を探ることが可能となったのである。

 その第一歩として、遺伝子ファミリーの進化の解明を行っている。遺伝子の重複は遺伝子ファミリーの進化の引き金になるので、その歴史を遡ることはとても重要であるが、ゲノム上には互いに似た配列が多数存在するために、単純に比較しただけでは重複の歴史的順番を推定することは困難である。ある遺伝子重複の後に一方の機能が変化すれば、その機能的制約によって進化速度が変化してしまう。また、遺伝子の機能が途中で失われると機能的制約が解かれて進化速度は急激に速くなる。つまり、遺伝子の進化速度の変化を無視した単純な配列比較では正しい結論が引き出すことができない。遺伝子の重複の順番を解明するためには、個々の遺伝子の機能的変化や機能消失を考慮した分子系統学的な手法を新たに開発して解析する必要がある。

 現在、相同な遺伝子の系統関係と、ゲノム上での互いの遺伝子の位置関係から、種間におけるゲノム構造の変異の歴史的順番を数値的最適化の手法を適用することによって解明することを試みている。分子系統学とゲノム比較を組み合わせることによって、ある遺伝子の進化の引き金となった突然変異が、ゲノム上でいつどのように起こったかを推定する。個々の突然変異が定着してきた歴史を解明することは、進化のメカニズムを知るための第一歩となるであろう。

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