コラム

遊びをせんとや…

福水 健次(数理・推論研究系)

遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん、遊ぶ子供の声きけば、我が身さえこそ動がるれ ―『梁塵秘抄』

 大学を卒業して企業に勤めていた頃、しばらく私の上司でもあったEさんは、打ち上げの席などで乾杯の挨拶の際に必ず「楽しくなければ研究ではありません。研究を楽しみましょう」という話をされていた。もちろん企業での研究活動には様々な制約があり、研究者が自らの裁量だけで自由に研究テーマを選べたわけではない。大学などに比べて納期管理や評価など厳しい場合も多い。しかしながらEさんは「本当に面白く意義のある研究をしましょう。そしてそれを楽しみましょう」と常に説いていた。挨拶のあとの乾杯に際して、「カンパーイ」という通常の発声の代わりに、「楽しみましょう」と杯を掲げて、いつも皆のタイミングを外してしまうのはご愛嬌であったが。

 Eさんは、私の大学での恩師にあたるU先生の大学時代の学友であり、二人は卒業後もずっと交流を続けておられたようである。私がその企業に就職したのもお二人の繋がりによるものであった。実は、私が企業在籍中に運よく論文博士によって博士号を取得できたのもEさんからU先生への働きかけがあったおかげである。Eさんの存在がなければ、私の人生は今とは大きく異なるものになっていたかもしれない。

 私はその後、産業界から学術界に勤める場所を移し、それから早や15年以上が経つ。その期間は、国立大学の法人化を始め日本の国公立大学・公的研究教育機関にとって大変革の時期と重なった。中期計画に沿った機関の運営や、研究費に占める競争的資金の比率の上昇など、学術界の研究機関や研究者は以前より計画的に研究を遂行することが求められるようになったと思う。それにはもちろん良い面があるが、一方で、自らの反省も込めて言えば、計画通りの結果を出すことに汲々とし、自由な精神活動に基づく未知なる世界の探求という研究の側面を忘れがちになる。

 冒頭の歌は平安期に編まれた歌謡集に収められている有名な一節である。その解釈には諸説あるようだが、「遊び」の語源は仏教に由来しており、本来非常に真剣なものであるという。遊に戯をつけた「遊戯(ゆげ)」は、心のままに振舞って何ものにもとらわれない自由自在な行動、すなわちさとりの世界に遊ぶことを意味するという。さらには、仏の境地にあって思いのままに人びとを導き浄土に往生させることを楽しむ、という意味も含まれているという。

 Eさんのいう「研究を楽しむ」心持ちも、この「遊び」に通ずるように思う。楽しむというのは、決して安楽な道を選んだり、稚拙な考えに満足したりすることではない。誰も知らない新しい世界を拓いていこうとすれば、荒野に踏み出す力が要る。研究を楽しむためには、高い専門性と深い知識に裏打ちされて自由な探求を楽しむ精神が必要で、それこそ研究の醍醐味である。

 さて、縁とは不思議なもので、統数研の現名誉教授であるI先生もまたEさんの学友であったことは、研究所に勤め始めた後に知った。昨年Eさんの急逝の報に接したのも、たまたまお昼休みに会ったI先生を通してであった。私の人生に大きな影響を与えたEさんの言葉を思い出しながら、もう少し研究に遊んでみたいと思う。

チュービンゲンの街並みを望む

研究会にて

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