コラム

広尾の思い出

石黒 真木夫(モデリング研究系)

 Nicole Kidman主演のBirthという映画がある。人のアイデンティティが記憶の上に成り立っていることを印象的に描いた、論理構造がしっかりした物語である。邦題が「記憶の棘」。

 統計数理研究所のアイデンティティにかかわる思い出をさがしてみた。

 統計数理セミナーの光景が眼に浮かぶ。昔々、セミナーの行われる部屋は3階の階段のすぐ傍の現在外国人客員用の2つの部屋がある場所にあった。セミナールームはおよそ中学校か高校の教室のような造りで、後に2つに分割されて外国人客員用の部屋が2つ作られたのである。

 そこでは、みんなで毎週誰かの話をOverhead Projectorで投影される画面を見ながら聞くのであった。参加者は自分の仕事とは直接の係わり合いをもたないテーマでも、よく耳を傾け、わからないところは質問し、ときには鋭い批判もした。外国あるいは国内からの賓客もたいていはこのセミナーの場で話をした。若い研究者にとっては経験豊かな先輩たちが待ち構えている、いささか怖い場所でもあった。統計数理セミナーは統計数理研究所の一体感を保つ上で極めて有効に機能していたと思う。

 この機能が失われはじめたのは、統計数理セミナーを講堂で行うようになって以来、であるように思われる。それはもちろん、時代の流れとか研究所を構成する人の入れ替わりが大きな要因であったには違いないが、明るい広すぎないセミナールームから、薄暗く、所員だけの参加では明らかに人口密度が希薄になる講堂へのそしてさらに研修室へのセミナー開催場所の移動という形が影響を及ぼしたに違いない。

 今、統計数理セミナーの思い出を語るのは、立川移転という転機がきっかけになって、あのセミナーが復活して再び研究所のアイデンティティの中核になる可能性があると思うからである。「統計数理セミナーが統計数理研究所の一体感を保つ上で極めて有効に機能していた」という過去形の表現を、「セミナーが研究所の一体感を保つ上で極めて有効に機能する」という現在形の表現に変えるチャンスである。過去形で語られるデータから現在形で語り得ることを引き出しそれを実践につなげるのは統計科学のお手のものであるはずだ。現在、あれは広尾に置いていくの、これは立川に持っていくのとかまびすしいが、統計数理セミナーの思い出は持っていくべきものの筆頭だろう。

 残念ながら、当時のセミナーの写真を持っていない。さがしていたらこんな写真が出てきた。

 1985年4月5日の統計数理研究所304号室である。この写真が、ぼくにとって、大切なのは、この日起こった楽しい事件の記憶がぼくの家族のなかで共有される伝説となっているからであり、ぼくと家族の関係というのはこういう思い出の上に成り立っているからだ。わが家のアイデンティティに関わる広尾の思い出の一こまである。

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